JR浅草橋駅東口を出て南へ進むと、江戸通りと神田川がぶつかるところに橋がかかっている。片側2車線からなるこの大きな橋が「浅草橋」だ。五街道である日光・奥州街道、さらには水戸街道に通じ、神田川と隅田川の合流地点からも近く水運においても利便性の高い「浅草橋」は交通の要所であり、武士や庶民が頻繁に往来する人気の多い通りだった。そして、この地は同時に江戸城防衛の重要拠点のひとつでもあった。その歴史を今に伝えるのが、橋の北側の小さい公園(浅草橋公園)内にある「浅草見附跡」の石碑だ。
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江戸時代の浅草橋は交通の要所なのに通りづらい!?
見附といえば、「赤坂見附」「四谷見附」などの名前が思い浮かぶ人も多いだろうが、もともと見附とは江戸時代に築かれた番所つきの城門のこと。「浅草見附」もそのひとつで、江戸城が完成しつつあった寛永13年に越前国福井藩主の松平忠昌(徳川家康の二男・結城秀康の子)によって築かれた。
見附は堀にかかる橋と一体になったものが多く、当時の外堀にあたる神田川にかかる「浅草橋」と「浅草見附」も同様であった。石碑は今でこそ橋の北側に配置されているが、実際の「浅草見附」は南側に置かれていた。その姿はいかなるものだったのか。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている蘇武乾造 編『江戸見附写真帖』には、幕末期に撮影された「浅草見附」の写真が記録されている。
写真左側に見える枡形の城門が、「浅草見附(浅草橋見附)」だ。枡形とは石垣や土塁、水堀や空堀などで四方を固めた防衛構造のこと。四方ある防壁の2方向のみに出入り口が設けられ、枡形の内側には広い空間が設けられているのが特徴だ。浅草見附の場合は北と西に門があり、内部には間口約24メートル、奥行き32メートルの空間が広がっていた。仮に浅草橋を北側から渡った場合、その先にある門から入って右に曲がって出る、といった具合だ。
現代人の感覚からすると通りづらそうだし、真ん中の空間がムダにしか見えないが、もちろん設計ミスではない。
長く続いた戦乱の世が生んだ防衛構造「枡形」の恐怖
《「東京開化卅六景/淺草橋ヨリ柳橋ノ景」(歌川広重/東京都立中央図書館)》このことを理解するために、今からわたしとあなたで江戸時代にタイムスリップし、無謀にも江戸城を襲撃してみよう。わたしたち襲撃犯は屈強な精鋭を10名ほど従えた決死隊を編成し、浅草寺方面から江戸通りを南下。浅草見附を通り抜け、江戸城に迫る計画をたてた。当時隅田川沿いに立っていた米蔵の前を通過し、神田川まで一気に駆ける。すると、幅約8メートル、長さ約40メートルという頑丈なる木造橋(浅草橋)が見えてきた。その先には左右を石垣(白壁という記録もある)に挟まれた高麗門がある。鉄板で覆われた頑丈そうな門だが、この時点では敵が襲撃に気づいていないらしく、門は開放されたまま。わたしたちは「これ幸い」と城門内部へとなれこんでいく。
内部に設けられた広い空間を右に曲がって、城門の外へ出ようとしたその時―――なんと、目の前で城門が閉じてしまう。しまったと思い引き返そうとすれば、後ろの門も塞がれている。周囲の石垣は高さ5メートル以上もあり、飛び越えることはもちろんできない。完全に閉じ込められた。ふと殺気を感じて振り返れば、西側の門上部に渡された渡櫓から、銃口がこちらを見据えているではないか。しかし、気づいたころには時すでに遅し。逃げ場を失ったわたしたちのもとに容赦なく銃撃が浴びせられる。一網打尽、である。
敵の勢いを削ぐのみならず、敵の身動きを封じてまとめて殲滅する。これが枡形の機能であり、その無慈悲なる構造は日本が長い戦乱を経て築き上げた城郭防衛の完成形とも言われる。創意工夫もここまでくると悪質にすら思えるが、当時はそれが必要とされる時代だったのである。
大火の避難民まで一網打尽!?浅草橋で起きた江戸最大級の悲劇
浅草見附の守りがいかに強固であったかはおわかりいただけただろうが、江戸時代にはこの守りの堅さが仇となる事件も起きている。
明暦3年1月18日に発生した「明暦の大火」と呼ばれる大火災がある。3日間にわたって続いたこの火災で、江戸の街は外堀より内側にある城下町、大名屋敷、さらには江戸城の天守までも焼失する被害を出した。死者数は時代もあり正確なことはわかっていないが、3万とも10万とも言われる。いずれにせよ、悲惨な大火災であったことは間違いない。
この大火の火元は諸説あるが、ともかく1日めに起きた大火事は本郷丸山付近(東京メトロ・本郷三丁目駅あたり)で発生したとされており、北西からの強風にあおられて駿河台を経て日本橋方面へと延びていき、最終的には霊岸島や佃島・石川島あたりまでも焼き尽くした。
そんななか、浅草橋から江戸通りを南下した先にある小伝馬町で、歴史的な事件が起きていた。それが伝馬町牢屋敷での「切り放ち」である。「切り放ち」とは火事のような緊急時に囚人を一時的に解放し避難させる制度だが、当時はまだ制度が存在せず牢屋奉行の石出帯刀吉深による独断で行なわれた措置だった。
涙を流して感謝する囚人たちに、「無事に生還できたら、必ず戻ってくるように」と石出帯刀吉深は厳命したが、それもさすがに口約束。逃げるに決まっている……と思いきや、解放された囚人120人全員がなんとか生還し大火がおさまった後にきちんと指定された浅草新寺町の善慶寺に戻ってきたという。この事件が以降「切り放ち」が制度化するキッカケとなったーーーというのが一般的なこの「切り放ち」のエピソードだが、実はこの話は別の暗い逸話も生んでいる。そして、それこそが「浅草見附」に伝わる江戸最大級の悲劇である。江戸時代の随筆「むさしあぶみ」の記述をもとに、悲劇を振り返ろう。
石出帯刀吉深によって一時的に解放された囚人たちは、逃げまどう近隣住民とともに江戸通りを北上し「浅草見附」に迫った。すると、ここで恐ろしい事態が起きる。囚人たちが「浅草見附」に姿を現すや、たちまち「浅草橋」へ続く門が閉まっていくではないか。門を守る番兵たちが人混みのなかに囚人を見つけて脱獄と誤解し、逃げ惑う避難民もろとも外堀(神田川)の内側に閉じ込めてしまったのである。この非道な判断の結果、多くの避難民が逃げ場を失って焼かれ、あるいは神田川に飛び込んで溺死した、というのがその逸話の内容である。
「浅草見附」の閉門は眉唾?真相はただの交通渋滞か
とはいえ、実のところ、この「むさしあぶみ」の記述には疑問も多い。仮にこの記述が真実だとすれば、当時の火の回り方を考えても「切り放ち」で避難した囚人の大部分は焼死していなくてはおかしく、そうなればもちろん彼らは約束通りに戻ってこないわけで、石出帯刀吉深の独断は大失敗に終わったことになる。もちろん、後に「切り放ち」が制度化されることもないはずで、つまり、歴史に重大な矛盾が生じてしまうのである。
疑問はそれだけではない。そもそも門に向かって押し寄せる人混みの中から囚人を見つけ、門を閉めるなどということが現実的に可能かどうかもあやしい。百歩譲って兵が囚人を発見し、人命よりも脱獄の阻止を優先するはた迷惑な正義感に駆られたのだとしても、民や彼らが持ち出した荷物が挟まって閉門などままならないのではないか。
ただし、この「浅草見附」での悲劇が嘘八百だと言いたいわけではない。「むさしあぶみ」には車長持(長方形の収納箱に車輪のついたもの)に家財を大量に積み込んで逃げる民衆の姿が描かれているが、実は避難当時このように家財を持ち出そうとした人々が交通渋滞を起こし、被害を拡大させる例があちこちで起きていた。結果、江戸や京都・大阪といった大都市では車長持の製造と販売が禁止されるようになったほどだという。
ならば、それと同じことが「浅草見附」でも起きていたのではないか。「浅草見附」やその先の「浅草橋」に避難民が殺到した結果、車長持による交通渋滞が発生。結果として、人は人垣、荷物はバリケードとなって、唯一の避難路を塞いだというほうが説明としてはしっくりくる。勢いを削ぎ、身動きを取れなくして一網打尽ーーー「浅草見附」の防衛構造が、たまたま避難時の混乱と迫りくる火の手によって機能してしまったのではなかろうか。
もちろん、今となっては真実はわからないが、いずれにせよ、このときの反省を受け、幕府はここから東にある隅田川に緊急時の避難経路を築くことを決め、両国方面へ抜ける大橋「両国橋」が開通することとなるのだが、それはまた別のお話。
「江戸城 浅草見附跡」
東京都台東区浅草橋1-1-15
文・山口 大樹
写真・伊勢 新九朗