今回、ご紹介する”粋人”は、浅草橋駅から徒歩数分にある銭湯『弁天湯』のオーナー北島鉱一さん。北島さんは台東区浴場組合連合会の会長、東京都浴場組合の理事も兼任されていらっしゃいます。
下町エリアの歴史を語る上で欠かせないものって、やっぱり銭湯。
今ではほとんどの家にはシャワーやお風呂がありますが、昔はない家だって多かったのです。当時の人はみな、銭湯に行くのが当然だったわけで、だからこそ、そこには地域のコミュニティが生まれていたはずです。現在、浅草橋には片手で数えるほどしか銭湯は残っていないのですが、昔は一体どんな感じだったのでしょうか?
浅草橋の過去に思いを馳せながら、北島さんに浅草橋地域の銭湯の歴史を聞いてきました。やわらかな物腰から語られる北島さんの話は、知らないことばかりで驚きました。
目次
100年以上の歴史があるのは事実。でも創業した時期が実ははっきりしない弁天湯
まずは、弁天湯の歴史を聞こうと思ったのですが、この地域は戦争の大空襲で焼け野原となり過去の書物が一切残っていないとのこと。
「ウチの二代目は明治37年(1907年)にここ弁天湯で生まれているので、その頃からは間違いなくやっていたんですよね。なので少なくとも100年は続いているんですよね」
浅草で惜しまれつつ廃業した蛇骨湯は江戸時代からやっていたそうで、ひょっとするとここ弁天湯も江戸時代の終わりからやっていたのかもしれません。
というのも、弁天湯の目の前を通る道を「福井町通り」と言うように、かつてここは福井藩の下屋敷があった場所。周辺には職人も住んでいたりして、江戸時代から人が集まる場所だったそう。100年以上続いているというのは驚くべきことですね。
弁天湯の入り口には小さなお社がありますが、弁財天があるから弁天湯という名前にしたのかと思いきや、これも記録が残っていないので正確なところはよくわからないそう。
弁天湯のとなりには、かつて弁天池という池があったそうです。そこにあった弁天様を祀る弁天堂は震災や戦後でなくなったりと様々な経緯を経て、戦後しばらくして、昭和30年頃に弁天湯に移設されたのだそうです。
その後、昭和の終わりには、完全に北島家が管理をするようになったとか。
人口が増えるにつれて増えていく銭湯。台東区南部には銭湯が100軒以上あった!
江戸時代から人が多かった浅草橋ですが、銭湯が増え始めたのはやはり人口が増え始めた戦後あたりだそうです。
「戦争でね、このあたりは焼け野原になって、復興が始まってあちこちから人が集まってくるんです。もともとウチは銭湯やっていたから再度銭湯を立て直しますけど、他でも銭湯を作れって流れになるんですよね。当時は多い時で都内では3千何百軒もあったんですよね。」
なんと3,000軒!
それが今では都内で500軒程度に……。だいぶ減っちゃったんだな。3,000軒ぐらいあったうち浅草橋には何軒あったんでしょうか?
「多い時はね、当時の台東区南部で100軒以上はあったんですよ」
と言って、見せていただいた昭和6年当時の銭湯名簿には、確かに「浅草橋百十一軒」の文字が!(※名簿のお写真も撮らせていただいたのですが、名簿を管理していた方と連絡がとれず、掲載は控えることにしています。味のあるフォントで書かれた素敵な名簿なので掲載したかったのですが!)
え〜〜!!!! 100軒!!
「地域内で銭湯がひしめき合っているから、かつてはそれぞれがライバル同士だったんだけどね、いまは数が少なくなってきた今は協力し合う存在になっています」
今は浅草橋・蔵前エリアで4軒しかないのに、100軒もあったなんて信じられないですよね。でも事実そうみたいで、そういう時代がここ浅草橋にはあったみたいです。
「そうそう、だからピークの時には地元の人たちがたくさん来てましたよ。だいたいは2~3軒いくとこ決めて入りに来てくださってましたね。縄張りじゃないけど、この辺の地域に住んでいる人はここみたいな感じで、その時は決まってましたね。」
銭湯の開業ピークを越えて日本がある程度経済が安定してきて復興が終わりを迎えると生活レベルが向上してお風呂がある家が増えてきたため、銭湯へ行く人は減っていったようです。
「その頃になるとね、『銭湯は風呂がないウチが行く場所なんだ』っていう認識に変わってきて、みんな家のお風呂に入るから、人がだんだん銭湯に来なくなっちゃったんですよね」
今でも物価統制令で唯一価格が定められている銭湯は、正式には「一般公衆浴場」と呼ばれます。
公衆と名がつくだけに、本来は「みんな」のための銭湯。しかし、時代が豊かになるにつれて、銭湯が求められている役割は変わってきているんだなと感じました。
やはり当時は地域コミュニティの中心。銭湯人は大変だった……!
浅草橋最盛期は100軒以上もあったという銭湯、そんなに必要とされていたということは、来られる人も相当いたということ。北島さんが幼い時の話を聞いてみました。
「1日に300人以上は来ていましたね。私が幼いときには本当に人で人でごった返していて、当時はロッカーなんてなかったからカゴでしたけど、カゴも全然足りなかったんです。」
「足りないのはカゴだけじゃなくてね、蛇口のことをカランっていうでしょ。あそこも浴場内に人が多くて、足りてないときは二人で横並びで座って分け合って使ったりね。そんなことありましたよ。だってその時はご近所さん同士でしたから、それが普通だったんです。」
今では考えられませんが、家にお風呂がなくて、銭湯は人でごった返して、そりゃそうなりますよね。コミュニティが狭くて顔見知りの人ばかりだったからこそ生まれる光景。
でも、そんなに人と人とが近かったらトラブルになるのでは? と聞いてみたところ
「ありましたよ。お客さん同士のトラブルがあったときは、番台にいる店主がおさめてたんですね。ただ昔は年長者がこういうルールだって言って、若い人はああそうなんだと理解して従うもんなんですが、それでもトラブルに発展してしまうときは我々がおさめてました」
「今はもう、ここは建て替えてカウンターになっちゃったから奥で何があってもわからないよね」
そうかそうか、昔の銭湯は番台があったから脱衣所から湯船まで広く見渡すことができた。だから昔ながらの銭湯ってああいう形だったんだなあ。
「昔は常連さんが多くてね、遠くから来る人が少数。いま住まいまではわからないけど、昔は町会の人が多かったので、顔見たら誰々さんがどこどこの人ってわかったんです」
小さな地域内の人が出入りしていた当時の銭湯は、まさに地域のコミュニティの中心になっていたわけですね。
銭湯に限らず、昔は地域の情報や噂はすぐに広まったものですが、毎日同じ地域の人同士と交流していた銭湯はコミュニティを深める顕著なものだったのだろう思います。
銭湯の役割や魅力は人それぞれ。コミュニティを作ってきた良い場所であることは変わりない。
今では、かつての地元コミュニティとしての役割が失われつつある銭湯業界。
しかし、「いまは家にお風呂があっても、銭湯は「楽しい場所だ」「いい場所なんだ」というふうに、業界全体で一所懸命呼びかけてます」と、弁天湯のオーナーであり、東京都浴場組合の理事でもある北島さんは言います。
ここ弁天湯では、銭湯という場を生かして定期的に落語をやったり、ランニングステーションとしてランナーに場所を提供したりするなど、さまざまな取り組みを昔からやられています。
それをきっかけにして、人が集まってひとっ風呂浴びて、じゃあ駅前で飲んでいこうかと来られる方もいらっしゃるそう。遠くから来られる方も増えて、昔と比べたら役割はずいぶんと変わってきていますが、本質的に人と人をつなぐ「接点」であることには間違いありません。
北島さんから語られた弁天湯の歴史を聞けば、やはり銭湯は「いい場所である」ことは間違いありません。そんな銭湯は日々来る人の心を癒します。
後編では、4代目である北島さんが100年以上受け継いできた弁天湯の中をご紹介していきます。
(後編へ続く)
文:カブレ 佐藤
写真:伊勢 新九朗