「100年後も子どもに寄り添い続ける」浅草橋エリア(小島)にある出版社「金の星社」とは?

動物園で殺処分された象の実話をテーマにした「かわいそうなぞう」
太平洋戦争で両親を失った少女の原体験を描いた「ガラスのうさぎ」——。

誰もが読んだことのあるベストセラーをはじめ、近代児童文学を牽引してきた『金の星社』は、1936年に浅草区小島に移転してきて以来、この地で子どもたちの心を豊かにする良書を生み出し続けている。

その児童図書出版の草分け的存在である同社が、今年11月で創業100周年を迎えた。

そこで今回、三代目の代表取締役社長・斎藤健司さんに、その半生と街への思いについてうかがった。

児童書専門出版の先駆けとして創業

金の星社は1919年に根津で創業。時は男女平等や普通選挙制度等を求める自由主義的な運動が広まった大正デモクラシーの時代だった。

初代の斎藤佐次郎氏は、童謡詩人・野口雨情を編集長として抜擢し、島﨑藤村や西條八十、若山牧水等の錚々たる人物が参画して童謡童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)を創刊。庶民的な内容と読者投稿も募る親しみやすさで人気を博した。

1919年11月に創刊された『金の船』第一巻 第一号。100周年を記念して今年7月、装丁はそのままに第二号とともに復刻版が発売され、話題となった。

1919年11月に創刊された『金の船』第一巻 第一号。100周年を記念して今年7月、装丁はそのままに第二号とともに復刻版が発売され、話題となった。

さらに童謡ブームの中、童謡音楽会や著名な子役を起用した児童劇も開催し、黎明期の子ども文化をリードする存在となった。

「祖父はものすごく優しかったのですが、しつけや教育には厳しい面がありましたね」

そう話す斎藤さんは、杉並生まれの練馬育ち、山のような本に囲まれて少年時代を過ごした。

「子どもの頃、ここ(会社)はまだ木造の旧社屋でしたが、よく父(二代目、雅一氏)に連れられて来ていました。複雑な構造の秘密基地のような建物が面白くて、わくわくしながら遊んだり、本を読みふけっていた記憶がありますね」

その頃から自然と「いつか自分が継ぐ」という意識が芽生え、中学生の頃から出荷のアルバイトを手伝うようになったという。

画商として全国を飛び回った修業時代

斎藤さんはバンカラだった男子校での中高時代を経て、大学では商学部で経営を学びながら芸能プロダクションのアルバイトに明け暮れた。

卒業後は、二代目の勧めで美術雑誌や画集も出版している画商に就職。配属は出版部で営業職だったが、実際の仕事は絵を売る仕事がほとんどだった。

「トラックに絵を積んで全国のデパートや書店の販売会を回るハードな仕事で、月に休みは1日くらい。今で言うブラック企業でしたが(笑)、バブル全盛期でしたので絵は飛ぶように売れましたね。その頃は画家さんとのお付き合いもあり、多くの事を学びました。何より『この仕事に比べたら、どんな事にも耐えられる』という自信がつきましたね」

「外に出て修行したからこそ自分の会社の状態を客観的に見る目が養われました」

「外に出て修行したからこそ自分の会社の状態を客観的に見る目が養われました」

そこで5年勤めたあと、本の街、神田で古書店から派生して新刊の出版や取次、第二市場のバーゲンブック等、本に関わるすべてに携わっている会社に転職。全ての部署を経験し、出版全体のことを改めて勉強した。

「実は最初の会社は3年の約束だったのですが、自分の会社となると後々は従業員と家族に責任を持たないといけない。そのプレッシャーがあり2年延長してもらったんです。でも、戻ると決めた時には、腹をくくりました」

そして、計6年の修行を経て、29歳の時に営業職の一般社員として金の星社に入社した。

営業、販売戦略で改革を断行し、異例のヒットを生む

金の星社では、二代目・雅一氏の時代に70年代に『かわいそうなぞう』(累計156万部)、『ガラスのうさぎ』(累計240万部)という、現在も読み継がれているロングセラーを生み出した。

1970年に「おはなしノンフィクション絵本」として発売された『かわいそうなぞう』は多くの反響を呼び、様々な作品に影響を与えている。

1970年に「おはなしノンフィクション絵本」として発売された『かわいそうなぞう』は多くの反響を呼び、様々な作品に影響を与えている。

斎藤さんが入社した90年代は、既に世間ではバブルが弾け不景気の波が押し寄せていたが、出版はまだ「並べるだけで売れる」時代だった。その後、出版業界はピークを迎え2000年にさしかかる頃、出版不況が訪れる。多分に漏れず、金の星社の本も売れなくなり、いつしか取次会社から「返本四天王」と不名誉な渾名で呼ばれるように。

そこで斎藤さんは、修業先で養ったビジネスセンスを生かし、営業の改革を断行した。

「当時、他社でやっているところはまだほとんどなかったのですが、取次に各書店さんでの売り上げデータを提供してもらってデータベースを作り、営業にメリハリをつけました」

そうすることで、返本が劇的に減り実売は大幅にアップ。過剰な在庫を抱えず、適正部数でしっかり売るというスタイルを築き上げた。

さらに、販売戦略でも新機軸を打ち出した。そのくさびとなったのが社長就任後に発売した文芸書版『ハッピーバースデー』だ。

2005年に発売した文芸書版『ハッピーバースデー』。「原稿を一読した時、これは何としてでも多くの人に届けないといけない、という使命感にかられました」

2005年に発売した文芸書版『ハッピーバースデー』。「原稿を一読した時、これは何としてでも多くの人に届けないといけない、という使命感にかられました」

「この作品は、母親に言葉の暴力で追い詰められた少女が自立していく姿を描いた児童書でしたが、大人層にも評判がよくて多くのマスコミに取り上げられました。そこで著者に母親の視点をより強く打ち出して書き直していただき、大人向けの文芸書版として発売しました」

山手線の車内吊り広告や新聞広告も大きく展開し、文芸書版だけで57万部を売り上げる異例のヒットとなった。

“今”抱える問題を浮き彫りにし、
未来に希望を届ける使命

また、斎藤さんは社長就任後、社員全員で経営計画を作り直す作業を始め、入社前の新人から幹部まで教育に力を入れる等、一人ひとりが自ら考えて自立的に動き、改善し続けられる人材育成を行なっている。

そういった改革を行う一方で、初代の頃から変えないものがある。

それは「子どもたちの心を豊かにし、成長の糧となる良書の出版と普及」という信念だ。

「シンプルに楽しい絵本も出していますが、軸となるのは、時代時代の子どもたちに寄り添い、“今”直面している社会問題を浮き彫りにしながら、子どもたちに元気を与えられる出版物。それは絵本にしても常に意識しながら作っています」

エントランスには近刊が展示されている。「常に読者の立場にたって考えて企画するという姿勢は初代の頃から変わっていません」

エントランスには近刊が展示されている。「常に読者の立場にたって考えて企画するという姿勢は初代の頃から変わっていません」

それがなにより未来の子どもたちに届けたいものだと熱く語る。

「バブル以降、世の中は激変しています。子どもたちが育つ環境もそうですし、不幸な事件は後を絶たない。その中で、出版という形で希望をしっかり伝えていくのは弊社の使命だと思っています」

玄関口に飾られた童謡童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)のバックナンバー表紙。2019年は、創刊100周年という記念すべき1年となった。

玄関口に飾られた童謡童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)のバックナンバー表紙。2019年は、創刊100周年という記念すべき1年となった。

後半へ続く。

「パンのペリカン」に「うさぎや」……地元出版社「金の星社」が取り組む地域貢献

文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗