[前編]街の人たちの「おいしい」のために。『江戸前 寿し政』親方 大山豊さんインタビュー

「町中華」「町蕎麦」なる言葉がここ数年、耳目を集めている。

いわゆる「よそいき」ではなく、古くから街に、そこに暮らす人々の生活に根ざした中華料理屋や蕎麦屋のことだが、江戸時代から庶民に普及した寿司もそういった庶民の食文化の一つに数えられるだろう。

ここ浅草橋にも流行廃りに左右されず、住宅街でひっそり商いを続けている街の寿司屋『江戸前 寿し政』がある。

長らく地域に愛されながら、来年度の東京2020オリンピック・パラリンピックを前に、引退をする市井の職人に話をうかがった。

「焼け野原で玉音放送を聞いた」少年時代

「へい、いらっしゃい」

暖簾をくぐり、引き戸を開けると快活な声で迎えてくれた。

トラディショナルなねじり鉢巻きに白衣をまとった親方が、つけ場の中で軽快に握りを仕立てている。

カウンターに腰をかけ、その淀みない所作に見とれていたら女将さんが柔和な笑顔で温かいお茶を出してくれた。

浅草橋2丁目の路地裏に佇む『寿し政』のつけ場に立つのは大山豊さん。

凛とした佇まいだが、聞けば齢82歳というから驚いた。

流れるような手さばきで寿司を握る大山さん。この職人技を眺めながらいただけるのがカウンターの醍醐味だ。

流れるような手さばきで寿司を握る大山さん。この職人技を眺めながらいただけるのがカウンターの醍醐味だ。

大山さんは昭和13年に横浜で生まれ、第二次世界大戦後に一家で浅草橋に疎開した。

「1945年3月10日の東京大空襲の時は国民小学校1年生で横浜に住んでいて、8月の玉音放送は焼け野原の中で聞いたよ」

その後、中学3年生の頃に、空襲の被害がなかった浅草橋に住む叔父一家を頼り、移り住んだという。

東京大空襲時、アメリカ軍による「私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません」から始まるこの通告のビラが戦闘機から撒かれた。

東京大空襲時、アメリカ軍による「私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません」から始まるこの通告のビラが戦闘機から撒かれた。

「その頃は今みたいに高い建物はなかったから、この辺りから浅草の国際劇場の丸い屋根や神田のニコライ堂が見えたのを憶えてるよ。戦後で整備されてなかったから、店は早いもん勝ちじゃないけど縄引いてバラック建てたり、そんな時代だったね」

高校を中退し、10代で寿司屋修行に

疎開先として頼った叔父は昭和18年に出征し、戦後、日本に帰ってきてから浅草橋の駅前にバラックを建て『寿し政』をはじめた。

昭和30年代と思われる浅草橋東口付近の写真。当時江戸通りに都電が走っていた。

昭和30年代と思われる浅草橋東口付近の写真。当時江戸通りに都電が走っていた。

大山さんは、当時、上野公園近くにあった都立竹台高校に入学した。

「毎日電車で通っていたら、ある日浅草橋駅前に叔父が立っていて、いきなり『お前、学校辞めろ。寿司職人になれ』って言われたんだ。小さい頃から叔父の握りを食べていて寿司屋もいいなと思っていたから、夏休みが終わらないうちに学校を辞めて店に入ったよ」

昭和29年、太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験によってマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆し、“原爆マグロ”が築地に埋められたその年に、叔父さんが“親方”に、叔母さんが“女将さん”に変わった。

昭和20年代に撮影された、当時の店舗に立つ大山さん。ねじり鉢巻きスタイルは今も変わらない。

昭和20年代に撮影された、当時の店舗に立つ大山さん。ねじり鉢巻きスタイルは今も変わらない。

戦後当時の寿司屋は現在とは異なり、客が料理の対価として支払っていたのは「加工代」だったという。

「その頃は米が配給制だったからね。たとえば、客が米を一合持ってきたら、握り1人前を握って加工代をもらう。ネタは検見川とか浦安からやってくる行商のおばさんたちから買って。入ったネタでその日の寿司が決まってたよ」

その後、叔父の獅子奮迅で昭和33年にビルを建て、カウンターのある寿司屋だけでなく大衆食堂も併設。現在、チェーン店やラーメン屋で取り入れられている食券制をいち早く始めた間口六間の大型店は、新聞で取り上げられるほど話題となった。

厳しい寿司職人修行で培った確かな技術

一般的に「飯炊き3年、握り8年」と言われる寿司職人の修行は、魚を触らせてもらえるまで5年はかかると言われている。

大山さんが高校を辞め、16歳の夏から始まった修行は、まず、掃除と洗い物から始まった。

「当時3人くらいいた職人も一つ屋根の下で寝食を共にしていて、親方は朝一番にまず俺をじょうろで叩いて『おい、起きろ』って起こして(笑)。今はパワハラって言うのかい? そんなのに文句言うやつはいなかったよ」

休みは月に1回、半日だけ。昼の営業が終わったあと、突然「お前休んでいいよ」と言われた時だけ自由な時間が与えられる辛い日々だったが、それが当時の寿司職人修行では当たり前だったと笑う。

昭和45年に撮影された集合写真。ねじり鉢巻き姿の大山さんの前に座るのは女将の秀子さん。抱えられた子どもは長男の宏之さん。

昭和45年に撮影された集合写真。ねじり鉢巻き姿の大山さんの前に座るのは女将の秀子さん。抱えられた子どもは長男の宏之さん。

昔気質の親方の厳しい教えに逃げ出す職人もいる中、大山さんは親方の背中を見て技を盗み、切磋琢磨しながら頭角を現していった。

そんな修業時代で思い出深いのは店で行なわれていた研究会だという。

「月に1回、夜の営業が終わったあとに、皆で集まって新しい寿司とか飾り包丁の技術とか、夜通し研究をやっていたね。昔は今みたいに情報がなかったから自分たちでやるしかなかったんだよ。その頃に培った技術や親方の教えがあったからこそ今があるんだよ」

研究会の記録写真。「当時は夜営業のあと、自ら居残って始発が来るまで大根のかつらむきの練習とかしていたよ」と大山さん。

研究会の記録写真。「当時は夜営業のあと、自ら居残って始発が来るまで大根のかつらむきの練習とかしていたよ」と大山さん。

時を越えて受け継がれる正統派江戸前寿司

10年も経たないうちにつけ場に立ち、晴れて客前で握るようになった大山さんが店を継ぐことになったのは26歳の頃。昭和39年の東京オリンピックを待たずして親方が鬼籍に入ったあとだった。

その頃から今でも親方の教えを守り続けているという。

「お待たせしちゃったね」

カウンターの上に昼の握り一人前を乗せたゲタが供された。

佇まいだけで鮮度の良さがわかる大ぶりな寿司は、昼1人前1100円、1人半1600円。ちらし1人前1100円も人気が高い。

佇まいだけで鮮度の良さがわかる大ぶりな寿司は、昼1人前1100円、1人半1600円。ちらし1人前1100円も人気が高い。

まず、見るからに脂の乗ったぶりをいただく。

口の中で少し固めに炊かれたシャリがほろっとほどけ、ぶりの上品な淡味と絶妙に合わさって、噛むほどに旨味が広がる。

ねっとり甘いイカ、ぷりぷりの弾力が光る車海老……。それぞれネタの持ち味が引き出された握りの中でも、とりわけマグロの赤身と中トロの旨味は目をみはるものがある。

「ネタは冷凍ものを使わず、河岸でその日仕入れた天然ものを使い、とにかくうまい寿司を出す」という親方から受け継いだこだわりを感じるそれは、この日は旬の大間と三厩の天然本マグロ。およそ、街場の寿司店で食べられる代物ではない。

シャリに使う米は、浅草橋で四代続く「小川米店」から、その時期に上質なものを都度精米したてで仕入れる。

シャリに使う米は、浅草橋で四代続く「小川米店」から、その時期に上質なものを都度精米したてで仕入れる。

「親方が亡くなる前に、『お前はもう安心だ』って言ってくれた時は嬉しかったねぇ」

そうしみじみ話す大山さんは二代目として店を切り盛りし、平成に変わる直前に現在の場所に移転。

50を超えてからの再スタートだった——。

(後編へ続く)

[後編]街の人たちの「おいしい」のために。「江戸前 寿し政」親方 大山豊さんインタビュー

文:藤谷良介
写真:伊勢新九朗