「よっしゃ!」「いってらっしゃい!」「今日も頑張って!」
朝8時の浅草橋東口。仁王立ちでピンと伸びた背筋に法被を羽織り、ねじり鉢巻き姿の男性が威勢のいい声をあげる。階段から続々と降りてくる人たちと拳を合わせ、満面の笑みで「ガッツッ!!」——。
浅草橋駅を通勤、通学で利用する人には、もはやお馴染み“ガッツおじさん”こと嵯峨完(みつる)さんだ。
嵯峨さんは、浅草橋界隈だけでなく、日本全国、近年はアジアからもファンが訪れる劇場型エンターテインメント居酒屋『たいこ茶屋』の大将として、37年前からこの地に根を張ってきた。
▼「たいこ茶屋」の紹介記事
【必読!】刺身を食べたかったらここ!ほぼ毎日マグロの解体ショーが見れる「たいこ茶屋」で刺身を堪能する今回、古希を迎えてなお、街に人にエールを送り続ける“粋人”に、その激動の人生と浅草橋への想いをうかがった。
目次
「鶏口となるも牛後となるなかれ」一国一城の主を目指し、仙台より上京
嵯峨さんが生まれたのは宮城県仙台市。7人兄弟の末っ子だった。
「機関士をやっていた父親が2歳の時に亡くなってね。それからおふくろが女手一つで7人を育てて・・・。苦労人だったよ」
その母が働いていたのが機関区の食堂で、よく連れられて行っていた嵯峨さんは、幼少の頃から料理の世界が身近にあったという。
その後、地元の工業高校に進学。サッカーに明け暮れる思春期を過ごし、進路を決める頃に、ある言葉に出合った。
“鶏口となるも牛後となるなかれ”
「『大きな組織の尻についているより、小さくてもいいから頭になりなさい』と。当時読んだ『史記』に登場する言葉で、これに感銘を受けてね」
料理人として一国一城の主を目指し、上京を決意した。
「常に相手の立場を慮って考えろ」寝る間を惜しんで料理を学んだ
仙台時代にアルバイトで働いていた牡蠣料理店「かき徳」の千葉哲雄社長から、東京・赤坂の懐石料理屋を紹介され、本格的な板前修業がスタート。
日本料理の板前は、「追い回し」という掃除や洗い物等の雑務担当からはじまり、各持ち場で技術を習得しながら段階を踏んで昇格する。
「その後は、盛り付け、焼き場、揚げ場、煮方……。料理人は色々なところで修行するのが当たり前の時代だったから、経験を積みながら転々として、二番手にあたる煮方になったのが23歳の頃、京橋の割烹料理店『和可奈』だったね」
今では飲食業界でも働き方改革が叫ばれているが、当時の業界で若い衆は寝るのもままならなかった時代。店に住み込み、怒声や手が飛び交う中、早朝から夜中まで寸暇を惜しんで先輩の技を見ては盗み、体得していった。
たまの休みも親方の家に訪れ、落語家の弟子のように常にお供をしていたという。
「料理の技術はもちろん、それ以外でも『常に相手の立場に立ってモノを考えろ』ってことをたたき込まれて。それは今にも繋がっている信念だから、経験して本当に良かったね」
20代半ばで名実ともにトップの板長に——
その翌年、両国国技館前の『パールホテル両国』に就職。
副料理長である脇板として入ったが、翌年料理長が辞め、板場を任されることに。
「親方から『チャンスだからやってみろ!』と言われて、なったはいいもののそこからが大変だった」
当時、嵯峨さんは24歳。自分より年上の部下を使わなければならない。
「若造の言うことなんか聞けるか」と次々と人が辞め、最終的には一人になったが、故郷の仙台の高校に求人票を持って駆け回り、若い衆を集めて凌いだ。
その頃、万年最下位だった広島東洋カープ(現・広島カープ)が関東遠征時にパールホテルを定宿にしていた。
「昭和50年に初優勝した時、私も胴上げしてもらってね(笑)。今でも鮮明に覚えていますよ」
当時、監督として指揮をとっていた古葉竹識氏とは、今でも交流が深いという。
そして、赤字続きだった系列の居酒屋を行列店にする等、約10年、名実ともにトップとして活躍し、34歳で遂に独立を果たす。
斬新なアイデアが人を呼び、多店舗経営で隆盛を極める
昭和57年、『たいこ茶屋』をオープン。念願の鶏口となった嵯峨さんが選んだのは浅草橋だった。
「両国の隣で、たまたま縁があって。当時は駅前に店なんて少なかったよ」
業態は、当時少なかった海鮮居酒屋。中央に相撲の土俵をモチーフにした屋根付きの大きな丸テーブルを配し、太鼓の音が鳴り響く大箱だった。
今ではチェーン居酒屋で当たり前となっている下駄箱に靴を入れて客が木札を持つスタイルや、シロップを使ったサワー等、当時珍しかったアイデアを取り入れ、さらに現在の「じゃんけん大会」や「マグロの解体ショー」に繋がる抽選会といったエンターテインメント性で楽しませるお店は、確かな味も相まって人が人を呼び、一躍繁盛店となった。
時はバブル景気に入る直前。店を出せば客が入る時代に勢いづいた嵯峨さんは、神田、錦糸町、行徳、千間台、沖縄と店舗を増やし、カラオケパブも始め、一時期は8店舗を経営する等、隆盛を極めた。
「そこからがどん底の始まりだった——」
(後編へ続く)
撮影:伊勢新九朗
文:藤谷良介