日本の人形史に名を刻む老舗「吉德」十二世・山田德兵衞さんインタビュー【浅草橋の粋人】

「顔がいのちの吉德——」

誰もが耳にしたことのあるこのCMのフレーズを聞くと、思い浮かぶのは、切れ長の美しい瞳と円やかで優美な表情の、クラシカルな雛人形と五月人形。

1711年、正徳元年に創業し、今年(2021年)で310年を迎える「吉德」は、浅草橋を語る上で外せない名代の老舗というだけでなく、日本の人形史の発展に深く寄与してきた存在でもある。

今回、現当主の十二世・山田德兵衞さんにお話をうかがい、吉德の知られざる歴史や浅草橋との深い関係、守り続けている哲学、さらに店舗での買い物の楽しみ方から稀少な資料を無料公開している「吉德これくしょん」の展示まで前後編で紹介する。

徳川六代将軍から屋号を賜った江戸最古の人形店

吉德の創業は、江戸時代の正徳元年。初代の治郎兵衛が現在の店舗の場所に人形玩具店を開いたと伝わっている。

「その頃、徳川六代将軍の家宣公が店に立ち寄られ店名を聞きました。治郎兵衛は日除けでよしずを使っていたことから呼ばれていた『よしず屋です』と答えたところ、風流ではないと思われた家宣公が懐紙に『吉野屋』としたためて屋号を賜った、と伝え聞いています。なので、当時、すでに店はありましたが、この出来事が慶事なので公式には正徳元年創業としています。実際の創業は元禄の頃と思われます。山田家のルーツは、現在の知多半島である尾張国です。かつてあった河和(こうわ)という地域から一旗揚げるために治郎兵衛が江戸に出てきました」

江戸名所図会 巻之一「十軒店雛市」の図。画家・長谷川雪旦が描いた、有名な日本橋十軒店の雛市の情景。軒先に張りめぐらした幕の中に、吉德(山田家)の家紋がある。資料提供:吉德

玩具がまだ「手遊び(てあそび)」と呼ばれていた当時、このエリア一帯は江戸城を警護する城門のひとつである「浅草見附」であり、江戸通りは浅草寺に向かう参道で、街道でもあったことから人の往来が非常に多かった。

「今で言えば浅草寺の仲見世がここまで続いているイメージです。治郎兵衛はその参道の一等地で人形と玩具を中心としたお土産屋を商い、同じような商売をする店も多かったことが、浅草橋は人形問屋、蔵前が玩具問屋といった現在も続く問屋街のルーツになりました。さらに、隅田川と神田川が合流する浅草橋は水運が発達していたので物流が盛んだった。ここに店を構えることは商売として意義のあることだったのです」

「明治神宮で例えると、表参道の入口くらいの距離。今とは比較にならないくらい賑わっていたと伝わっています」

時を同じくして、江戸時代に雛人形や五月人形が町人文化として広く普及したこともあり、吉野屋の名は知れ渡ることになった。

現在の社名「吉德」は、明治6年に屋号の「吉野屋」と当主の名前「德兵衞」を略称したものとなっている。

日本の人形業界を牽引する存在に——

江戸時代に隆盛を誇った吉德は、明治に入ってさらに業界内の地位を確立する。新政府が発令した五節句廃止令に対し、八世が節句品販売の存続を政府に陳情。廃止令が覆り人形業界を救った。

さらに昭和に入ると、渋沢栄一が携わった日米の国際親善事業「青い目の人形」にも吉德は深く関わった。この事業は、当時移民問題で日米間が対立を深めていたことをアメリカ人宣教師、シドニー・ギューリック博士が懸念し、昭和2年に「青い目の人形」を贈ることで子どもの世代からの友好親善を提案したもの。

明治時代の店舗。資料提供:吉德

「その前年の年末に大正天皇が崩御し、国中が喪に服して翌年の雛祭りは自粛になりました。雛人形は、年末までに仕入れるのが通例なので、業界全体は大打撃を被る。そこで先々代の10世が政府に交渉し、雛祭りは、祭りにあらずとお墨付をもらう。

その後、アメリカから青い目の人形が贈られ、それらを飾るための雛人形セットを全国の学校に卸したことで人形業界が救われたいきさつがあります。10世は文部省の委嘱で、アメリカへお礼として答礼人形の企画製作の指導者となり、人形をアメリカに贈りました」

その後、戦前より宮内庁の御用を承る。戦後は業界に先駆け植毛ビニール人形「パティードール」の発売や、現在も吉德を象徴する「人形は顔がいのち」のキャッチフレーズで業界初の雛人形のTVCMを開始するなど、吉德は人形業界を牽引する存在として時代を駆け抜けてきた。

昭和40年代後半の店舗。資料提供:吉德

「次世代にバトンをつなげる」という使命

現社長の十二世は大学を卒業し、3年間サンリオで修行したあと、平成6年に家業に入ったという。

「その頃の吉德は、今と同じ浅草橋に店と社屋がありましたが、営業や物流、仕入れ、企画・生産を担う拠点は荒川区の町屋にありました。そこでオリジナルのぬいぐるみの企画生産を担当し、1年の半分は中国の工場につめていました」

「先代は経営者として厳しい人でした」と十二世は振り返る。

現場で10年以上たたき上げたあと、平成19年に社長に就任。そして、創業300年を迎える前年の平成22年に第十二世として代々受け継がれてきた「山田德兵衞」を襲名した。
襲名といっても形式だけではなく、裁判所で戸籍上から名前を変えるもの。300年の長きに渡って連綿と続いてきた吉德の顔となる重圧はなかったのだろうか。

「社長就任以前から戦略設定など実質的な代表者の責任を負っていて、ある程度心構えができていましたので重圧はありませんでした。もちろん、300年続いてきた歴史にリスペクトはありますが、その歴史に思いを馳せすぎてもプレッシャーにしかならない。当代の使命は、吉德というリレーの中で、次の世代にいい形で暖簾というバトンを繋げるために、自分の区間を一生懸命に走ること。家業の継承は、預かっているものだと考えています」

平成22年に十二世の襲名披露が行われた。資料提供:吉德

代々暖簾が継承されてきた中で、守り続けている言葉がひとつだけあると十二世は続ける。

「実は、吉德にははっきりとした家訓というものはないのですが、あえていうのであれば、先々代が先代に『勝たずとも負けるな』という言葉を残しています。様々な受け取り方ができますが、ポジティブに解釈するなら『他人を蹴落として一人勝ちを目指すのではなく、もっと広い目で業界全体に貢献する商売をしなさい』ということ。その姿勢は守り続けています」

伝統に革新を取り入れ「変わらないものを変えていく」

そう話す十二世が主導したプロジェクトで、大きな話題を呼んだのが、「吉德スター・ウォーズシリーズ」だ。五月人形と往年のSF大作『スター・ウォーズ』のキャラクターを組み合わせた斬新な企画は、社長に就任した平成19年にリリースし、各方面で大きな反響を呼んだ。

© & TM Lucasfilm Ltd. 世界で最も有名なキャラクターであるダース・ベイダーと日本の伝統工芸が融合した商品は、まさに唯一無二の傑作だ。

「2年かけて実現までこぎつけたプロジェクトなのですが、きっかけは従来の五月人形には主張がなかったこと。雛人形は顔や色合いが華やかで、女性が選ぶにあたって感性に訴えかけるポイントがありますが、五月人形は色や姿形も似ていて、どうしてもスペックの話になる。なので、シンプルに『かっこいい』と思える五月人形をつくりたかったのです」

もともと吉德には、雛人形、五月人形で様々なキャラクターをコラボレーションした実績とノウハウがあったが、この組み合わせは業界でも前例はない。当時の版権窓口を通してルーカス・フィルムと根気強く交渉し、吉德の伝統と著名なフィギュア造形作家、竹谷隆之氏のオリジナリティあふれるデザインを融合した表現に挑戦。生み出された唯一無二の五月人形は、『スター・ウォーズ』公開30周年記念の年に発売し、作品のファンだけでなくあらゆる層にセンセーショナルな反響を巻き起こした。
現在もロングセラー商品として受注生産で販売されている。

© & TM Lucasfilm Ltd. 受注生産の『スター・ウォーズ』は1階で展開している。

「そういったキャラクター商品も含めて、“変えていく”という意識は常にもっています。一般の方が見られたら弊社の伝統的な雛人形や五月人形は、去年も今年も同じに見えるかも知れません。ですが、刻々と変わりゆく社会や時代に合わせ、人々の嗜好を捉えながら少しずつ変えている。歴史に甘んじてその積み重ねを怠ると取り残されるので『変わらないものを変えていく努力』を続けていくことが大事だと考えています」

その一方で、伝統をしっかり守り続けなければならないと続ける。

「現代はライフスタイルや生活空間が前時代と大きく変わっていますが、雛祭りや端午の節句でお子様の成長をお祝いしたいというご家族の想いは不変のもの。その心に寄り添い、職人が一つひとつ精魂込めてつくった人形で、これからも日本の伝統文化を支えていくことが吉德の使命です」

「江戸の中心地だった街の賑わいを目指したい」

受け継がれてきた伝統に新たな時代に立ち向かう革新を取り入れる。その姿勢を3世紀余に渡って継続し、今日の吉德があるのは浅草橋という土地が大きいと十二世は断言する。

「吉德が始まり現在まで続いているのは、東京の中心地である浅草橋に店を構えているから。それは揺るぎない事実です」

地域との関わりも深く、とりわけ吉德の初午は地元の子どもたちが毎年楽しみにしていたという。通常、初午の祭は2月に行なわれるが、人形問屋はかき入れ時の真っ最中なので、吉徳では5月の中旬に行なわれていた。明治から昭和初期の頃は、見世物や落語家、神楽師を呼び、集まった地域の老若男女にお神酒やお菓子、果物を振る舞う一大イベントとして親しまれていたという。(現在は、5月に社屋の屋上にて社員のみで行っている。)

「浅草橋の賑わいづくりに貢献していきたい」と語る十二世。後ろの写真は、昭和61年に来日された英国王室ダイアナ妃と迎賓館に招かれた十一世。

また、十二世は『鮒佐』や『江戸蕎麦手打處あさだ』、『ベルモントホテル』、『長谷川商店』、『人形の久月』の当主たちと街の活性化を目的にスタートした「浅草見附会」の立ち上げメンバーだ。

「私個人でいえば、浅草橋ではまだまだ新参者です。ただ、変わりゆく街に思うところはあります。江戸の頃は『浅草寺 見附で聞けば 突き当たり』という川柳があったほどこの地には人の往来が多く、紛れもない江戸の中心地のひとつでした。その頃の賑わいを目指しながら、街に貢献していきたいですね」

浅草見附会加盟店の記事はコチラから↓

[前編]160年余、守り続ける江戸前の佃煮。[鮒佐]5代目・大野佐吉さんインタビュー [前編]伝統を守りながら進化する。 [江戸蕎麦手打處あさだ]8代目・粕谷育功さんインタビュー 江戸時代から令和へ。8代目が語る日本屈指の老舗人形店「久月」のあゆみ 専務取締役・横山久俊さんインタビュー 何度も足を運んでもらえるホテルであり続ける。「ベルモントホテル」代表取締役・鈴木隆夫さんインタビュー [前編]街が求めているものを創っていく。「HICRA.」「RUMCRA.」のオーナー 千葉潤一さんインタビュー

(後編へ続く)

取材・文/藤谷 良介
写真/伊勢 新九朗

吉徳HP