なんで『浅草橋』っていうの!?地名の由来を求めて、テクテク散歩【浅草橋歴史散策】

浅草橋は最近流行りの店から老舗まで、魅力的な飲食店や雑貨屋が多く立ち並び、歩いているだけでもワクワクする街です。
そんな浅草橋ですが、意外とどんな歴史がある街か知っている人は少ないんじゃないでしょうか?
なにせ、近くにある浅草の歴史ばっかり残ってますから(笑)
数少ない資料を読み解いてみたら、浅草橋の違った一面が見えてきました。

みんな知ってる?浅草橋の名前の由来とは?

ときをさかのぼること、江戸時代。
浅草橋がある台東区は、江戸幕府によって開発され始めました。

出典:初音森資料館 展示パネル

開発の一環として江戸幕府は、武蔵国冨嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった江戸城の外堀に沿って見附(みつけ)を設置しました。見附とは、見張り番所のこと。堀にかけられた橋と、一体となって設置されていることが多かったようです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 『江戸見附写真帖』

その見附がこの土地にも、寛永13年(1636年)に「浅草見附門」として設置されました。
浅草見附門は日光・奥州・水戸の諸街道への重要な拠点として、多くの人で賑わい活気のある場所になりました。

この場所の象徴である「浅草見附御門の橋」から「浅草橋」と名付けられた、というのが有力な説だそう。
現在では、浅草見附門は壊されてしまい跡形もないですが、橋のたもとに「浅草見附御門跡」として石碑が残っています。

また、浅草見附御門跡の近くにある『初音森神社』には、浅草見附門の門柱が展示されています。

浅草橋を散策する際には、探してみてくださいね。

なぜ問屋が多いのか!?問屋街のルーツを紐解く

浅草橋といえば、問屋が多いイメージです。
「浅草橋を歩く」でも、数多くの問屋さんを取材してきました。
浅草橋に問屋さんが多いのにも、ちゃんと理由があるんです!

問屋さん取材記事はこちらから。

初心者でもOKな浅草橋問屋巡り ~革・アクセパーツ・造花・花火・バルーン編

現代とは違って江戸時代では、陸路よりも水路が重要視されていました。主要な交通運輸機関として舟運が使われていたからです。
そのため、江戸幕府にとって重要だった米や諸国の産物の大量輸送は、船で行なわれていました。現在でも、名残りとして屋形船が運航しています。

浅草橋のすぐ近くには「神田川」が流れていて、その交通の便の良さから江戸時代に土地開発され、水運がさらに盛んになりました。
それにより、多くの米や産物が集められるようになり、お店が数多く並ぶようになりました。発注がしやすい環境だったからこそ、問屋さんがたくさん開かれたのです。
こうして歴史を見てみると、浅草橋に問屋さんや老舗が多いのも納得ですね!

浅草橋から歩いて行ける! お隣、蔵前にも歴史あり

せっかくなので、ご近所さんの名前の由来も。浅草橋のお隣にある「蔵前」。ここも、水路が発達したことによって生まれた場所です。

江戸幕府は税金を「年貢米」としてお米で納めさせていました。学生時代に日本史を学ばなかった人も、江戸時代に米が盛んにやり取りされていたのはなんとなく知っているんじゃないでしょうか。

そんな江戸時代の重要アイテム「米」は、江戸各所にあった「米蔵」という場所に集められ管理されていました。しかし、江戸時代初期。江戸幕府は一か所の米蔵に集めます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図』

新しく米蔵として選ばれたその場所は、水路にある舟から直接水揚げできるように、隅田川西岸一体に櫛状に堀が掘られて作られました。そして、その場所は「浅草御蔵」と命名され、浅草御蔵の西側の町が「蔵前」と名付けられたのです。蔵の前にある町だから「蔵前」なんですね。

こうして歴史を知ると、いつも見ている風景や馴染みのお店も少し違って見えてきました。今も昔も人が集まる商人の街。「浅草橋を歩く。」では、これからも町の魅力を掘り下げていきます。

文・写真 増田 朱音