【浅草橋の粋人】浅草橋を見守る「第六天榊神社」宮司・安川忠正さんに聞いた浅草橋の歴史

浅草橋と蔵前のちょうど中間あたり、隅田川近くにある第六天榊神社。1900年以上の歴史を誇る由緒ある社です。今回、昭和21年から宮司を務め、70年以上もの長きにわたって第六天榊神社を、そして、浅草橋を見守ってきた宮司の安川忠正さんに、学問的にも、政治的にも栄えながら変化してきた浅草橋の歴史についてお伺いしました。多くの歴史を語っていただいたものを、史実と照らし合わせながら、ご紹介します。

御蔵の前で栄えた江戸時代の浅草橋

安川さんは、自身が見てきた浅草橋だけでなく、そこに至るまでの浅草橋の歴史も語ってくださいました。

まずは、江戸時代までさかのぼります。浅草橋は神田川にかかる橋であり、神田川、また神田川が流れ込む隅田川は外濠の役割を果たし、その外濠の内側を御府内、外側を御府外と呼びました。浅草橋の地域は「御府外」に位置し、昔の本を見ると第六天榊神社も御府外第六天神社と書いてあるそうです。

その頃の浅草橋地域の大きな出来事と言えば、観音様を中心に栄えた浅草に、元和6年(1620年)、幕府の米蔵として浅草御蔵ができたことが挙げられます。第六天榊神社の一本通りの向こうに、今でも「浅草御蔵跡碑」が立っています。その御蔵の前に商人が集まってきたことが浅草橋の隣に位置する蔵前の名前の由来です。

その頃に集まっていた商人がやっていたことは金貸しなのだとか。当時の言葉で、「札差」と呼ばれ、お米をお金に交換することで大儲けし、相当な勢いを持っており、今でも歌舞伎の演目の一つ『助六』で、蔵前の旦那衆といった呼びかけがあるのはその名残と言えます。

蔵前にはお金持ちが寄り集まっていて、一般の人はその外に生活していました。

国会図書館は浅草橋から始まった、浅草文庫

「御一新(明治維新)の時になると御蔵がなくなり、札差もつぶれ、御蔵に勤めていた一般の庶民は食うに困ったのではないか」と安川さん。御蔵がなくなったあと、何ができたかというと、江戸時代に幕府が江戸城内の紅葉山に設けていた「紅葉山文庫」の図書をすべてここに持ってきたそうです。これが日本における国立国会図書館のはじめといわれています。

「浅草文庫」と名付けられ、現在、第六天榊神社の敷地内に碑が立っています。

多くの優秀な人を輩出した東京職工学校

明治の時代は、薩長に負けた反省を活かし、兵を強くしようと「富国強兵」、海外からはるかに遅れていた技術に追いつくために、「殖産興業」を掲げて近代国家を作ろうとしていました。技術者の指導者を作るために、明治14年(1881年)、幕府の御蔵のあとに「東京職工学校」を作りました。現在の大岡山にある「東京工業大学」の前身にあたります。優秀な人材を多く輩出し、今でも卒業生団体は「蔵前工業会」と名が残っています。この浅草橋から蔵前にかけて、学業で栄えた時期もあったのでした。

安川さんの見た浅草橋の焼け野原と伝え聞く戦時中の東京とは

ときは第二次世界大戦。

昭和19年終わりごろ、サイパン島が陥落し、米軍のB29 が基地を設け、日本列島にも日々B29による爆撃が起こっていました。昭和20年に入ると、連日連夜、B29の爆撃があり、3月10日、かの有名な「東京大空襲」が起こります。江戸川の端に至るまでの東京都の東半分はすべて灰になってしまったといいます。

当時、学生だった安川さん。第一線へと出兵していた安川さんは、帝国海軍の一員として名古屋の知多半島にいたといいます。昭和20年8月15日、解散して浅草橋に戻ってきた日のことを、鮮明に語ってくださいました。

「浅草橋の駅を降りたらびっくりしました。何も残っていなかったのです。神社も全部焼けてしまっていました。はるか向こうの千住火力発電所の4本の煙突が近々に見えたので、みんな亡くなっているのではないかと思いました。しかし、幸いなことに両親も地下壕に入っており助かっておりました」

浅草橋の駅だけが、コンクリートで残っていたといいます。神社が焼けていく様子は、安川さんも伝えきいたようでした。

「先代は一生懸命消火活動をしたけれど、どうしようもなかった。最後の最後まで努力したけれど、全部焼けてしまいました。連日の空襲で極度の乾燥地帯になっているところに火の粉が飛んできて、御社殿の高いところに移り、火が出ました。その他がすべて焼けたあとのことでした。消防自動車が1台あれば助かったと聞いています」

守ってきた社殿が燃え行く姿を目の前にした先代は、どれだけ悔しかったことでしょう。焼け野原を目の前にしたときの絶望、そして、家族が生き残っていた安堵感、まるで昨日のことのように話してくださったのでした。

戦後から今の浅草橋を振り返って

戦争が終わった翌年昭和21年に安川さんは宮司となりました。現在93歳という安川さんは、70年以上にわたり浅草橋のすべてを見てきて、一言、「隔世の感ですね」としみじみおっしゃっていました。隔世の感とは、「変化が激しく、まるで世代が変わってしまったようなこと」を指します。戦争での絶望、そして復興、色々な波があり、良くなったり悪くなったりしたのをずっと見てきたそうです。

「昔はよかったと思わずにいられないですね」という言葉は、日本だけでなく世界が変わってしまったこの2020年代はもちろんのこと、平成以降、勢いが感じられなくなってしまった日本を少し残念がっての言葉でした。逆に言うと、昭和30年から40年頃においては、それはもう勢いがあったのだそうです。戦前の人達が自分の家が焼けてしまったところから再建していく、その勢いが良い時代を作っていたのでしょう。その頃の浅草橋を見ていきましょう。

エネルギー溢れた再建時代と浅草橋地域

現在の第六天榊神社がある地域には、戦後一時期、両国の「国技館」がありました。GHQにより両国国技館が接収され、明治神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続けていた相撲協会が、本格的な興行場所を求めて昭和25年開館したのが「蔵前国技館」です。

それから昭和59年まで、建物の老朽化で閉館し、現在の両国に移るまでの34年間、相撲史に残る多くの出来事がこの地で生まれていたのです。

蔵前側でスポーツが盛り上がっていたその頃、浅草橋の川岸の柳橋界隈は政治が盛り上がっていました。柳橋には、江戸時代から続く花街があり、戦争による休業や大きな被害があったものの、復興し、東京オリンピック以降に衰退していくまで、夜の帝国と呼ばれ、政界の中心になるような人たちが集っていたといいます。昭和47年には柳橋の料亭「いな垣」に田中角栄も来ていたというのは有名な話です。

残念ながらその盛り上がりも昭和33年頃、柳橋の花火大会もなくなり、街がガラッと変わってしまいました。浅草橋は、明治時代から昭和30年頃まではおもちゃの街でしたが、おもちゃの街がなくなり、最近は新たな街として、生まれ変わってきています。

今後の浅草橋に想いを馳せる

2020年夏、世界はコロナ禍となり、初めてお宮の中だけのお祭りになり御神輿も出ませんでした。「神社仏閣が栄えないと、街が栄えないですからね」と悲しがる安川さんの言葉がとても染みました。

お伝えしてきたように、浅草橋は何百年も前から本当に話題の多い場所です。「新しい時代には、新しい勢いが増していくのではないでしょうか」という安川さんの言葉通り、新しい時代に、また新しい勢いが生まれる日が1日も早く来るよう、第六天榊神社でお祈りして、今回の取材を終えたのでした。

YouTube版「浅草橋を歩く。チャンネル」にて、宮司さんインタビューの様子が観られます↓

第六天榊神社情報

御朱印は、鶴と亀の印影が添えられた大変おめでたい「健康長寿」への祈りが込められた御朱印です。初穂料300円。

絵馬は、写号「榊神社」にちなんだ「榊」の絵がデザインされています。榊は神様の依り代ともされ、神仏に縁の深い植物です。

第六天榊神社
〒111-0051 東京都台東区蔵前1丁目4−3
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/taito/3223/
https://twitter.com/dai6tensakaki

「浅草橋を歩く。」運営会社である伊勢出版が制作した御朱印本にも掲載!

『願いを叶える!動物のすごい御朱印だけ集めました。 全国107社完全ガイド』

撮影:伊勢 新九朗
文:ちえこじ