「私、『めぐりん』に乗るのが大好きなんです! 実は『めぐりん』にも、『北めぐりん』『南めぐりん』『東西めぐりん』『ぐるーりめぐりん』の4種類があって。
そういえば、『めぐりん』のアナウンスは、鳥越神社を『とりこえ』って発音しています。正式には『とりこえ』で間違いありませんが、地元の人はみんな『とりごえ』だから、最初は不思議な感じがしましたね」
目次
HUMANS OF ASAKUSABASHI No.1「ディニティ夏幸」
コミュニティーバス「めぐりん」への愛を語り出したら止まらない彼女の名は、ディニティー夏幸(なゆき)(23歳)。
浅草橋に住み始めて2年が経つ。
学生時代をカリフォルニアで過ごした彼女は、「浅草橋で暮らしたい!」という夢を持ち続け、日本での就職を機にそれを実現させた。
「日本で暮らしたい」ではなく「浅草橋で暮らしたい」である。
当サイトが言うのも変だが、「なんで浅草橋なんだ⁉︎」。
謎多き、ディニティー夏幸のヒストリーに迫る!
心に深く刻まれた3歳までの浅草橋の記憶
1996年、夏幸はスリランカ人の父と、日本人の母の長女として両国で誕生した。
母の実家は浅草橋にあった。祖父母が床屋を営んでいた。夏幸は3歳までよく浅草橋に遊びに来ていたという。
「正直、そのころの記憶はほとんどありません。アメリカに行ってから、残されていた写真を何度も眺めたり、母や祖母から当時の話を聞いたり、夏休みに遊びに行ったりして、私のなかで『浅草橋』の存在がどんどん大きくなっていったのです」
当時の写真には、柳北公園で遊ぶ夏幸の姿が克明に記録されている。
「0歳か1歳くらいの私が、父に明太子を食べさせられていたこと話を聞きました。ふつう明太子なんて、その歳で食べたら嫌がりますよね。でも私、なぜか満足そうな顔をしている。もしかしたら、日本とのつながりが生まれつきあったのかも(笑)」
祖父母と浅草橋が大好きだった夏幸だが、父親の仕事の都合で、カリフォルニアに移住することが決まる。
3歳のときだった。
カリフォルニアでの学生生活、ずっと心に浅草橋があった
3歳でアメリカに移住。
その後、大学を卒業するまで夏幸はアメリカで暮らしている。
ふつうなら、日本ましてや浅草橋のことは、母の実家がある街、たまの休暇に遊びに行く街として記憶されるに過ぎないだろう。
実際、2人いる妹は日本で暮らすことなど露ほども考えていない。
しかし、夏幸は違った。
驚くべきことに、5歳ごろから、将来浅草橋で暮らすことを夢見るのである。
父も母も日本語を話すため、日本語には自信があった。
しかし、中学生の頃、日本の義務教育を受けていないため、日本語能力が劣ると焦った夏幸は、自ら進んで日本語学校に行きたいと両親にお願いする。そして、大学に入学するまでの4年間通い続けたそうだ。
また、毎週土曜の夜には日本のテレビ番組を見ることができたため、テレビで漢字や言葉を少しずつ覚えていったという。
なぜ、彼女はそれほどまで「日本語」にこだわったのか。
それは、将来「浅草橋で暮らす」ためには、日本語を習得することが必須条件だと考えていたから。
また、英語を話せない祖母とコミュニケーションを取るためにも、日本語が必要だった。
夏幸の「浅草橋愛」は、大学で専攻を選ぶときにも影響を及ぼした。
彼女は、日本に行っても職が見つかるであろう「コンピュータ工学」を専攻する。理系の技術職なら世界中にニーズがあるからだ。
すべては卒業後に「浅草橋で暮らす」ためであった。
変わらない街、変わる街、受け継がれる人の想い
現在、夏幸は、祖父母や母が暮らしていた長屋に暮らしている。
「今、住んでいる長屋は、小学生の頃の夏休みによく遊びにきていました。当時、祖父がビールを飲んでいた卓袱台で、今、私がご飯を食べているのは、すごい不思議な感じがします。母も中学生の頃からこの家に住んでいました。3代続けて同じ家に住んでいることになります」
古い建物ってこともあって、夏幸はこの長屋で一生住むのは難しいと感じている。
「街が変わっていくことは仕方のないことかもしれません。でも、当然寂しさはあります。小学生の夏休みに来ていた浅草橋と今とでは、ずいぶん街並みも変わりました。でも、変わらないものに出会えると、なんだかホッとしますよね」
浅草橋で変わらないものといえば、「鳥越祭」を思い出す。
今年は残念ながら中止となってしまったが、彼女の祖父も生前は鳥越祭を何より楽しみにしていたそうだ。
「おじいちゃんは、お祭りが大好きで、お祭りが生きがいだったそうです。準備で飲んで、お祭り中も飲んで、打ち上げでも飲んで(笑)。母はよく『地元の人はお祭の時、血が騒ぐ』と言っていました。私は浅草橋に住み始めて、久しぶりに鳥越祭に参加しましたが、その気持ちをまた再確認した気がします」
夏幸が実際に浅草橋に暮らした期間はまだ2年にすぎない。
しかし、祖母や母から、自らのルーツや浅草橋のことを、幼い頃からずっと聞き続けていた。
そのため、長く暮らしている人と同じくらい、いや、遠いアメリカの地で想像力を巡らせていた分、誰よりも浅草橋に憧れて、浅草橋を愛しているように感じる。
夏幸は今住んでいる長屋で祖母とよく相撲をテレビで見たり、歌舞伎を観に行ったり、一緒に趣味の絵を描いたりしていました。
自分のルーツである浅草橋で暮らすことが、幼い頃から憧れていた浅草橋で暮らすことが、彼女にはとても自然なことだった。すぐに馴染み、落ち着ける居場所になった。
夏幸は、浅草橋に暮らし続ける。
この街には、夏幸にとって大切な「人と人との繋がり」が残されているからである。
グローバルとローカルをつなぐ架け橋になりたい!
夏幸は、休日のほとんどを浅草橋で過ごしている。もしくは、「めぐりん」に乗って台東区を巡っている。友人には、「浅草橋の引きこもり」と心配されているくらいだ。特別用事がないかぎり、都内の遠くの街に出かけることは少ないという。
「浅草橋のいろいろなお店に行くのがすごく楽しいです。料理屋さんに行くと、『イングリッシュメニュー?』と聞かれることもあれば、『あー磯田さんのお孫さんね』と気づかれたり。街には、祖父や叔父が散髪していた人がたくさんいるんですよね。そういう人に出会えるととても嬉しい」
浅草橋の魅力って、なんでしょうか?
夏幸に尋ねてみた。
「う〜ん。一言では言い表せないですが……『わからなさ』ではないでしょうか。柳北公園で、一人でお酒を飲んでいるおじいちゃんがいたり、何十年も続いている老舗があったり、最近はインスタ映えするお店も増えていますよね。そういう混在具合がとても魅力的です」
グローバルなキャリアウーマンである夏幸が、下町ローカルの浅草橋に惹きつけられることこそ、まさに「混在具合」を象徴しているのかもしれない。
最後に、これから浅草橋とどのように関わっていきたいか伺ってみた。
「今、インスタやnoteで、浅草橋の魅力を発信しているのですが、まだやり方を模索しているところです。ローカルな浅草橋を、グローバルな視点で、どんどん発信していきたいと思っています。小さなことですが、海外から友達がやってくるとき、必ず『浅草に行きたい』と言われるんですが、『浅草もいいけど、浅草橋に来なよ』って言っています。今はまだ『どこそれ?』ですけど(笑)。
アメリカで暮らしていたとき、コミュニティなんてありませんでした。隣の人が何をしているか知らなかったし、不用意に玄関を開けることなんてできません。
いまの日本はそれに近くなっているかと思いますが、浅草橋にはまだ『地域のつながり』が息づいているように思えます。それはとても貴重なことで、それがあるから私はこの街で生きられるし、だから大好きなんです。これからもたくさんの人とつながって、魅力溢れる浅草橋を世界に発信していきたいです」
夏幸のポジティブな話を聞いていると、これから先どんな時代の変化があったとしても、街を愛する人がいて、その愛を伝えようとする人がいるかぎり、文化は残り、継承されていくのだと感じた。これまでそうであったように、これからも続くのだ。
夏幸は今日も「ぐるーりめぐりん」に乗って台東区をめぐると、浅草橋に戻ってくる。
「めぐりん」は地域のおじいちゃんやおばあちゃんがよく利用するから、彼女は座席には座らない。いつも立ちながら町並みを眺めている。
浅草橋のお店でご飯を食べて、浅草橋の魅力をグローバルに発信し、浅草橋の住民と言葉を交わす。柳北公園で酔っ払ったおじいちゃんに、愛のある視線を送る。長屋に帰って、祖父が使っていた卓袱台で、晩酌をする。
もうこれは!
「浅草橋の女神」って呼んじゃってもいいですか⁉︎
文:堀田 孝之写真:伊勢 新九朗