浅草橋1丁目に生まれ、浅草橋2丁目に嫁ぎ、68年の半生を浅草橋で過ごしてきた太田初枝さん。
40代の頃、そんな初枝さんの人生を
「つまんねえ人生だな」と言った有名人がいたとか。
「私にも違う人生があったのかもしれない」と、落ち込んだ日もあった。
けれど、彼女はいま、浅草橋を誰よりも愛し、失われつつある地元の伝統を守る活動を続けている。
笑顔が愛らしい初枝さんに話を聞いた。
商人と職人の町・浅草橋に生まれて
昭和27年10月14日、太田初枝さんは浅草橋で生をうけた。
実家は、浅草橋駅西口を出てすぐにあった。現在は、「日本焼肉党」(※当サイトでは未取材)という焼肉屋さんが入っている建物だ。
初枝さんの実家はその場所で、大正時代から米屋と瀬戸物屋を営んでいた。
だから今でも、その建物の前を通ると、昔の思い出が蘇ってくる。
現在は焼肉屋さんになっている。二階の上下に窓の部分に、二段ベッドがあり、上と下、それぞれから外が見られたんだとか
当時と現在を比べて、浅草橋という街はどう変わったのだろうか?
初枝さんは次のように話す。
「浅草橋は当時、商人と職人の町だったの。誰々さんって呼ぶときも、〝畳屋のせがれ〟とか、〝豆腐屋のお嬢さん〟とか、お店の名前で呼んでいたな。だから私は、〝瀬戸物屋のお嬢さん〟ってわけ(笑)。昔はそういう呼び方だったよね。今みたいにマンションなんてないから、みんながみんな顔見知りって感じで、コミュニケーションが深かったと思います」
中学生でビートルズにゾッコン!
浅草橋で青春時代を過ごした初枝さんは音楽にのめり込んでいく。
とにかくロックが好きだった。
中学生のときにビートルズにハマった。中学2年のとき、来日公演にかけつけようとしたが、学校や家の事情で、残念ながら叶わなかった。
その後も、タイガース、ローリングストーンズ、レッドツェッペリン、エリッククラプトン、クイーン、ディープパープルと、「ロックの夜明け」をリアルタイムで経験した。武道館にも数えきれないほど通ったそうだ。
地方在住者には考えられない、江戸っ子ならではのエピソードである。
初枝さんは、短大を卒業してからソニーに入社し、25歳で寿退社した。
当時は現在と違って、女性は25歳までに結婚をするのが世間の風潮としてあった。
「本当はもっと働きたいという気持ちがあったけど、運悪く、今の主人に出会っちゃったから」
と初枝さんは屈託なく笑う。
結婚して浅草橋1丁目から2丁目へ
初枝さんの音楽好きは、人生を決める出会いをもたらした。
ある日、幼なじみの友人が、鳥越・柳二町会で祭りの囃子連を作るというので、初枝さんに声をかけた。
初枝さんが大の音楽好きであることでお呼びがかかったのだ。
そのメンバーは、浅草橋に暮らしている独身男女12人。
毎週のように集まり、祭囃子の太鼓や笛や鉦の練習や、盆踊りの太鼓も練習をした。
その後、飲みに行ってワイワイ騒ぎ、まるで青春グラフィティだった。
そこで出会ったのが、現在のご主人だった。
「主人は『ビートルズの曲で何が好き?』と聞いてきて、私が『Here, There and Everywhere』って答えたら、どうやら同じみたいで意気投合しました(笑)。あの人、中学3年のときにビートルズの来日公演まで見てるんですよ!」
自分が行けなかったビートルズのコンサートに、同じ浅草橋に住んでいた人が行ってたなんて! うらやましい!
初枝さんとご主人は、音楽の話をきっかけに仲を深めていった。
ご主人もまた、学生時代からジャズバンドを組んでアルトサックスを吹いていたほど音楽好きだったという。
だが当時、家庭の事情でプロになる道はあきらめ、浅草橋2丁目の頭飾(とうしょく)屋の3代目を継いでいた。頭飾屋とは、七五三や成人式の着物などに合わせるリボンやカンザシなどの頭飾りを作る職人である。
ご主人も音楽好きだったため、祭り囃子の練習に呼ばれていたのだ。
まさに「祭り囃子」と「ビートルズ」がつないでくれた縁。
ロマンチックな思い出を笑い飛ばすかのように、初枝さんは次のように話す。
「結婚するときは、これで私も柳二町会の住民になれる! と思った記憶があります。ここだけの話ですけど、浅草橋1丁目西町会は『銀杏岡八幡神社』の氏子ですよね。柳二町会は『鳥越神社』の氏子ですから、ついに私も鳥越神社の氏子になれる〜! と思っていました(笑)」
その喜び、浅草橋の住民じゃないと全然わからない(笑)。
浅草橋の住民に話を聞くと、「鳥越祭は人生そのもの」と語る人は少なくない。
世界のロックスターに傾倒していた初枝さんもまた、どっぷり浅草橋スピリッツに浸かっていたわけである。
ちなみに、当時、鳥越・柳二江戸囃子連のお披露目は、週刊誌の「サンデー毎日」でも大々的に取り上げられた。初枝さんが太鼓を叩く姿が、バッチリと写されている。
高田文夫さんに「つまんねえ人生だな」と言われる
結婚後、初枝さんには二人の息子の子宝に恵まれた。
姑さんが早くに亡くなったため、女手一つで、ご主人と義父、息子たちの世話をしてきた。
40代の頃、初枝さんは放送作家の高田文夫さんと会う機会があった。
「高田文夫さんは、私が浅草橋1丁目に生まれて浅草橋2丁目に嫁いだということを知ると、『つまんねえ人生だな』と言ったことをよく覚えています。つまんない人生だったかもしれないけど、大変なこともたくさんあったけど……幸せな人生ですよ」
初枝さんは、次男を出産後、視神経が圧迫される脳下垂体腫瘍になった。
視野の半分が、真ん中から定規で線を引いたかのように、真っ黒になった。
このまま視力が失われるのではないかと打ち震えた。
私がこのまま治らなかったら、生まれたばかりの次男、まだ小さい長男はどうなるのかと恐怖でした。
しかし、運命は初枝さんを見逃さなかった。
のちに、脳外科医として「神の手」と呼ばれる、三井記念病院の福島孝徳先生に出会い、手術を受けることができた。
失われていた視野・視力が回復し、現在に至るまで後遺症はない。
「この経験をきっかけに、生きているだけで素晴らしいんだということを、心から学びました。つまらない人生かどうかは自分で決める。だから、息子たちの子育てがひと段落したら、生きている間に、自分がやりたいことを全部やろうと思ったんです」
浅草橋に盆踊りを復活させたい!
地元の柳北小学校が創立120周年記念の年、PTAとそのOBで何かができないかと話があがった。
初枝さんは「盆踊りを復活させたい!」と提案した。
住民の変化や開発の波、時代の流れによって、浅草橋地区に盆踊りがなくなって10年以上が経っていた。
幼い頃から慣れ親しんでいた夏の風物詩がなくなってから、なんとなく寂しかった。
同世代の柳北小PTAとOBたちとで一から計画して、なんとか「柳北おどり」開催にこぎつけた。
すると、「懐かしい!」「来年もやって!」と評判がよく、平成8年柳北おどり実行委員会を立ち上げ、その後、母校・柳北小学校閉校後も、「柳北」の名を消さずに続けてきた。
「伝統行事が人と人をつなげてくれる」ことに気がついた初枝さんは、以降20年以上にわたって、「柳北おどり」の踊り担当を務めている。
2020年は新型コロナウイルス蔓延で、祭りや盆踊りが中止になったが、「浅草橋盆踊り倶楽部」メンバーと「浅草みなみ観光連盟」や、「浅草橋を歩く。」の伊勢出版さんの力も借りて、オンラインで生配信することもできた。
伝統行事を通して、人と人の輪が広がっていくことが何より嬉しかった。
それにしても、どうして浅草橋の人は、お祭りがこんなに好きなのだろう?
「好きっていうより、うちのおじいちゃん(義父)は、鳥越祭のために生きているような人でしたよ。鳥越神社の氏子には鳥越祭を支える『睦(むつみ)会』というのがあって、ここに入っている人たちは、祭りが終わったらもう来年の祭りの話をしていますから(笑)。
でも、たまに鳥越祭のために浅草橋に引っ越してくる若い人もいるんです。お祭りも盆踊りも私たちの世代で終わらせるわけにはいかないから、なんとかして下の世代につないでいきたいなと思っています」
このインタビューは、浅草橋の中華料理店「中国菜 仁」さんで行なった。
仁さんはコロナ自粛まっただ中に開店した新しいお店だ。
初枝さんは、浅草橋に新規オープンした仁さんの料理の虜になり、すぐにリピーターとなったそう。
古くからの伝統を守りながらも、新しい存在を受け入れてくれる浅草橋の懐の深さを、初枝さんの存在は象徴しているように思った。
最後に、今年は鳥越祭が開催されるか、聞いてみた。
「無理でしょうね! お神輿をかつぐのは濃厚接触だし、マスクをしたままあんなに重いお神輿をかついだら、みんな酸欠で倒れちゃうよ(笑)」
こんな素敵なおばちゃんがいる浅草橋、最高です!
この人生の、どこがつまらないんだー!
取材/堀田 孝之
写真/伊勢 新九朗
昔の写真提供/太田 初枝