浅草橋エリアだけでなく、日本各地、世界からもファンが訪れる劇場型エンターテインメント居酒屋『たいこ茶屋』の大将であり、“ガッツおじさん”として、日々、多くの人に元気を届けている嵯峨完さん。
高校卒業後、仙台から料理人を目指して上京し、30代半ばにして独立。バブル景気の後押しもあり、多店舗展開で隆盛を極めた80年代を駆け抜けて、待っていたのはどん底だった。
そこからいかにして復活し、押しも押されぬ不動の人気店になったか。その“粋様”とホームグラウンドである浅草橋への想いをうかがった——。
[前編]人に元気を届ければ、自分に返ってくる。「たいこ茶屋」大将・嵯峨完さんインタビュー 【必読!】刺身を食べたかったらここ!ほぼ毎日マグロの解体ショーが見れる「たいこ茶屋」で刺身を堪能する目次
鳴らなくなった太鼓—— 5億円の負債を抱えどん底に
1980年代後半から90年代初頭にかけて列島が狂騒したバブル景気。
他聞に漏れず『たいこ茶屋』もその恩恵に預かり、一時は8店舗まで拡大したが、バブル崩壊と共に客は去り、もはや威勢のいい太鼓が鳴り響くことはなくなった。
「一気にバブルが弾けて、どんどんお客さんがこなくなってね。文字通り絶望でしたよ……」
次々と店舗を〆、家も財産もすべて処分。残されたのは創業店である浅草橋の店と5億の負債だけだった。
どん底まで落ちたその時、救いの手を差し伸べてくれたのは、故郷の学友だったという。
「高校時代のサッカー部の仲間(※現宮城県サッカー協会会長の大久保芳雄氏、新山武志氏、赤坂健二氏、谷口正典氏など)が、『嵯峨が大変だ』ってカンパしてくれてね。集まったのは600万円。皆それぞれの生活があるのに……本当に有り難かった。それでもう、絶対に立ち上がるって決意して」
始めたのが“ガッツ”活動だった。
起死回生の“ガッツ”活動をスタート。来る日も来る日も配り続けた日々。
客足も少なくなり、広告宣伝費にお金はかけられない。
そんな状況で嵯峨さんは、毎朝駅でチラシを配り始めた。
「不景気になったのもあって毎日配ってもなかなか受け取ってもらえなかった。でも、ある時に『ガッツ!!』って渡したら、ニコって笑ってくれた人がいてね。それでひらめいて。エールを送りながら配りはじめたら、それまで1日100枚くらいしか配れなかったのが1000枚まで増えて」
昼と夜の営業をしながら、月曜から金曜まで浅草橋駅東口、西口、馬喰横山、東日本橋、小伝馬町を一人で回り、ガッツでチラシを配る日々。
「そのうち顔馴染みの人もできて『頑張れよ!』とか声をかけられたり。その反面、『邪魔だ』『うるさい!』とか言われることも一度や二度じゃなかったね」
逆風にも負けずその活動を続けていると、駅からは少し遠いという好立地とは呼べない店に、自然と人が訪れるようになったという。
「どこにもないアイデアは苦しみの中から生まれる」
そして、店舗をリニューアルし、お客さんが競りを楽しむ「マグロの解体ショー」や様々な景品が当たる「じゃんけん大会」をスタート。
今、世間で叫ばれている体験型の“コト消費”を先取りしたエンターテインメント性あふれるこの企画が口コミで広がり、現在では『たいこ茶屋』を語るに外せない名物となった。
さらに、長年の河岸との付き合いと卓越した目利き力だからこそできる、嵯峨さん独自の仕入れで、ランチは驚きの刺身食べ放題に。
その評判は地元から全国に広がり、昼夜ともに平日でも多くの人が訪れる人気店として復活を遂げたが、こういったアイデアは「苦しみの中だからこそ生まれた」と嵯峨さんは話す。
「なんとかしないといけない、というギリギリの状況の中から知恵が生まれてくる。そのために、常日頃『どうやったらお客さんに喜んでもらえるか』を考えているよ。あとはガッツだね(笑)」
その魂は、長女の多恵子さんと祐輔さん(若大将)夫婦、次女の茉梨子(マリリン)、祐輔の双子の兄弟・浩太郎さん(青大将)に受け継がれ、日替わりで舞台に立つ演者が変わりながら、日々『たいこ茶屋』にしかない楽しさを届けている。
お店の創業3日後に産まれた長女・多恵子さんは、学生時代からお店を手伝い、今では女解体師として注目を集め、伴侶である若大将・祐輔さん、青大将・浩太郎さん、妹のマリリンさんと共に『たいこ茶屋』の暖簾を守っている。
ガッツ活動は店を飛び出し全国へ。その源は、救ってくれた“浅草橋”だった
さらに2011年、東日本大震災が起こった後、被災地支援を開始。現地でマグロの解体ショーの後にさばきたての新鮮な刺身などを振る舞い、美味しさと元気を届けるボランティア活動は、現在74回を迎え(※2019年6月現在)、今年中に80回を超える。
そういった様々な活動すべてのベースとなっているのが浅草橋という街だ。
とりわけ東口には思い入れが深いという。
「浅草橋駅の東口には屋根があって、雨の日でも雪の日でもチラシ配りをすることができたからね。東口に救われたようなもんですよ」
そう話す嵯峨さんは、創業から37年、浅草橋とともに歩み、街の移り変わりを傍らで見てきた。ホームグラウンドへの思い入れは人一倍強い。
「昔は繊維や皮の問屋街で、旦那衆や職人さんが沢山いてね。鬼籍に入られた方も少なくないけど、長く贔屓にしてもらっていて、今でもお店に来てくれるから有り難い話だよ。その下町の良さを残しながら、IT企業や新しいお店が増えてきて、若い人がまた違った形で盛り上げている。新旧がいい形で交わって、活性化していくのは嬉しいし、自分を救ってくれた浅草橋に変わらずガッツを届けていきたいね。自分が人に元気を届けているからこそ、その後、色んな形で返ってきて元気をもらえるんだよ。人は写し鏡だから」
(取材・文=藤谷良介 取材写真=伊勢新九朗)