伝統の刃物文化を次世代に紡ぐ「森平」四代目・小黒章光さんインタビュー【浅草橋の粋人】

文明が発達した現代においても、包丁や鋏(はさみ)は暮らしに欠かせない。

そういった庶民史における刃物文化のルーツは日本刀にある。

明治維新後、1871年に日本刀の所持を禁止する廃刀令が公布され、それまで日本刀を作ってきた刀鍛治たちが家庭用や業務用の刃物作りを始めた。その証として東京千代田区鍛冶屋町がある。

東京屈指の問屋街だった名残りを今も残す浅草橋には、日本の伝統的な刃物とそれらを磨き上げる砥石にこだわる老舗問屋「森平」がある。

今回、四代目として暖簾を守り続ける小黒章光さんに取材し、知られざる森平の歴史や初代から受け継がれている矜持、さらに道具として包丁の魅力を発信する四代目の新しい取り組みや、切れ味が劇的に蘇る研ぎ方まで前後編でお届けする。

“不世出の名工”の作品も扱う刃物問屋

屋号が「小黒森平商店」だった頃の看板。

森平は、兄弟とともに黒門町(現在の上野1~3丁目)で金物・刃物屋を営んでいた小黒さんの父が浅草橋に移り、昭和8年に創業。自身の名前を屋号とした。

当時から刃物問屋として職人がつくる包丁や鉋(かんな)、鋏を、東京や関西、九州など全国の小売店に卸していたが、ただ出来上がったものを販売していたのではない。

「たとえば鉋ひとつにしても、刃を作る鍛冶屋、それを研ぐ研ぎ屋、台を作る台屋と3種類の職人仕事を経て完成します。うちでは、それを検品しさらに研いで磨いた上で卸す。父はその審美眼が厳しく、職人たちから“おたな(御店)”と呼ばれ、絶大な信頼を得ていました」

年に1度料亭で行なわれていた親方衆との親睦会の写真。森平は、関東を中心とした鍛冶屋、研ぎ屋が修行にくる刃物問屋の第一人者的な存在だった。

取り扱う刃物には、明治・大正・昭和にかけて活躍し“不世出の名工”と呼ばれた千代鶴是秀氏の稀少な作品もあった。その当時、鍛冶の神様は折をみて森平に訪れ、初代とともに盃を酌み交わしていたという。

「まだ都電が走っていた子供の頃、江戸通りの浅草橋までお迎えに行くと、着流しの粋な装いで来られていたのを今でも覚えています。やさしい笑顔でお駄賃代わりの飴をくれて、うちでは父とじっくり語り合いながら時折短歌も詠む文人でもありましたね」

使用人だけでも20人はいる大問屋で、男4人兄弟の末っ子として生まれた小黒さんの人生は、幼少時代から刃物とともにあった。

気が優しく人情味あふれる職人の粋

「その頃の浅草橋は本当の下町。材木屋や人形屋、袋物屋など色んな問屋があって、職人さんたちが多く暮らしていました」

その古きよき職人文化を感じる、こんなエピソードを小黒さんが教えてくれた。

かつて森平では毎月15日と月末が集金日だった。当時領収書というものはなく、集まった職人たちはそれぞれ受け取った金額と日付、名前を自分で書く「判取帳」に記入していたという。

当時の判取帳。

「判取帳を見たら誰が幾ら貰ったか分かるから、『お前稼いでんな』なんて言いながら連れだって一杯飲み屋に出かけてね。月に1度の集金日だから職人さんたちは皆いい着物きて、気持ちが大きくなって昼から飲むのがお決まりだったんです。そうすると、夜になってもまだ帰ってこない旦那をみかねて奥さんたちからひっきりなしに電話がかかってきて。初代が飲み屋に顔を出して『お前らいい加減に帰りな!』ってやると蜘蛛の子を散らすように帰るんですけど、せっかく月に1度の楽しみなんだからって連絡がきてもすぐ出かけず、わざと飲み終わった頃合いに出かけていたとおふくろはよく言ってました」

そんな下町の粋な人情味が浅草橋ならではの魅力だと続ける。

「どこどこの家の壁が壊れたっていったら、誰かが『しょうがねぇな』っていいながら直したり。みんな口調は荒いんですけど、気が優しくておせっかい。……そうそう、『ひさご』の八っちゃんみたいな粋な人がいっぱいいましたね(笑)。街が様変わりした今でも、昔ながらの人と人のふれあいは残っていて、ここにいると安心します」

[前編]“一日生涯”で街を見守る、美味しい職員室。[ひさご]八っちゃんインタビュー [後編]“一日生涯”で街を見守る、美味しい職員室。[ひさご]八っちゃんインタビュー

ふれ太鼓に屋形船……風流な街の情景

当時の街の情景も風流そのものだった。

「今の両国国技館ができる前、蔵前国技館があった頃、興業を告げる『ふれ太鼓』が街を回っていて。ある程度寄付している家には相撲番付を配ったり、家の前で太鼓を叩いたり……。テンテテンテテンって音が聞こえると、もう夏だなァ、なんて感じてましたね。金魚屋とか行商もよく歩いていました」

真面目な職人気質だった初代とは対象的にやんちゃに育ったご主人は、現在の「ヒューリック浅草橋ビル」の場所にあった福井中学校に通っていた。同級生には、柳橋で屋形船を営む「小松屋」一家のひとりもいたんだとか。

「屋形船は、時に芸者さんと遊ぶ忍びの場なので、大の大人がお茶汲みなんかしない。小僧がやるんです。たまに、手伝ってくれって言われて行ったら、芸者さんが旦那にいっておひねりをくれて、それが嬉しかったなァ。『平凡』とか『明星』の撮影で著名人が来たり、政治家の方もよく来られていましたよ」

4人兄弟の中で一番やんちゃだったという小黒さん。

「職人仕立ての刃物文化を残すのが私の使命です」

そして高校を卒業した後、小黒さんは研ぎの修行を始めた。修行といってもいきなり刃物を研がせてもらえるわけではなく、丁稚奉公からのスタート。

「拭き掃除、掃き掃除が基本で、一番大変な仕事は、親方が使ってすり減った砥石を翌朝までに平らにする作業。それを延々やらされたのですが、今思えばそれがとてもいい経験になりました。天然の砥石というのは、硬い、柔らかい、少し筋があるなど一つひとつ個性があって、それらは触れて削ってこそ分かる。つまり目利き力を体で学んだのです」

研ぎの修行時代は住み込みで休みなく働き、職人の中で一番長い列を作るようになったとか。

数年研ぎを学んだ後、さらに関西方面へ販売技術を学んだ小黒さんは、二代目、三代目の兄たちを支えながら、平成17年に4代目となった。

職人が一つひとつ丁寧に仕立てた刃物にこだわる――。

その伝統は頑なに守られ続けてきたが、安価な大量生産品の台頭や道具を使う機会が減ったライフスタイルの変化で、刃物業界は衰退していく一方の時代。そこで小黒さんが始めたのが実演販売だ。

小黒さんのパフォーマンスは様々なメディアで取り上げられた。写真は東急ハンズで実演販売していたときの告知パネル

「せっかく職人さんが最高の刃物を作っているのに、待っているだけでは売れない。このままじゃ職人さんがいなくなるって危機感を覚えて。職人と販売店や使い手の間に立ち、“本物の良さ”を伝える橋渡し役になって、実演しながらもっと売る。それが私の責任だと思ったんです」

長年培った技術と積み重ねてきた知識を駆使し、時にユーモアを交えながら分かりやすく解説し、見学している人たちに触れてもらいながら、道具の素晴らしさを発信する。そのパフォーマンスは反響を得て、デパートや商業施設では時に100人以上の人だかりができることもあったとか。

また、2017年に日本橋三越劇場で上演された山本周五郎原作の舞台『栁橋物語』では、江戸の研ぎ屋が舞台ということもあり、主演女優が森平に訪れ、小黒さんが立ち振る舞いを指導したとか。

「世界に誇る日本の刃物文化を残して、次世代に紡いでいく。今もそれが私の使命だと思っています」

時代は変わろうが、刃物は研ぐことで輝きが増し、切れ味が蘇る。

森平は刃物だけでなく、80余年に渡って「浅草橋で職人仕事を守る」という心も研ぎ続けていた。

後編では、森平で取り扱う包丁や砥石の魅力だけでなく、実際に編集部が包丁を購入し、小黒さんに研ぎ方をレクチャーしていただいたレポートをお届けする。

天然砥石と打ち刃物の“本物”が揃う老舗刃物問屋「森平」のこだわりがすごい!

【森平】
住所:東京都台東区浅草橋1-28-6
電話:03-3862-0506(代表)
営業時間:9:00~17:30(※営業時間を変更することもあります。お問い合わせいただければ幸いです)
休業日:土・日・祝日

森平

取材・文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗