[前編]伝統を守りながら進化する。 [江戸蕎麦手打處あさだ]8代目・粕谷育功さんインタビュー

日本の食文化に欠かせない料理であり、江戸の名物である蕎麦。

そのルーツは古く、約3000年前、蕎麦栽培は中国・雲南省からヒマラヤにかけての秘境で始まったと言われている。

日本では、諸説あるが、縄文時代後期に中国大陸から九州を経て本州に伝来されたという説が有力だ。

初めて歴史的文献に記されたのは797年に完成した『続日本紀』。

そして、鎌倉時代に中国から挽き臼が伝わり、粉物文化がスタートした。

江戸時代になるとつなぎを使った製麺技術が発達し、“そば切り”と呼ばれる麺状のスタイルが主流となり、江戸中期に庶民の食文化として定着した。

その伝統“江戸前蕎麦”を浅草橋で165年前から提供し続けているのが「江戸前手打處あさだ」だ。

現在、暖簾を守る8代目店主の粕谷育功さんに、店の成り立ちや跡取りとして歩んだ道、そして蕎麦へのこだわりをうかがいながら、その魅力を手繰っていく。

文明開化の夜明けとともに創業

「あさだ」のルーツは、中野で営んでいた穀物商にある。

江戸時代、中野は多摩・武蔵野地方で採れた農作物を江戸の町へ運ぶ中継地点で、製粉業が盛んだった。

そこで扱っている蕎麦粉を使って、初代の浅田甚右衛門がこの地に「あさだ」を創業。

時は安政元年、ペリーが黒船で江戸湾に再来航し日米和親条約が結ばれた、まさに国際社会への幕開けの年だった。

現在も同じ江戸通り沿いに立つ建物は20年前に改装したものだが、当時の風情を伝えている。八丁堀にある蕎麦屋「あさだ」も初代が同時期に創業したお店。現在は親戚が営んでいる。

「粕谷家は江戸に三つあった店の一つを任されていて、その後、戦争から帰還した祖父が受け継いで独立し、東京大空襲に見舞われた焼け野原の中でバラックから再スタートしました」

ちなみに、浅田甚右衛門は明治期にビール醸造業に乗り出し「浅田ビール」を発売、大正時代には「浅田銀行」を手掛けるなど、一大コンツェルンを築いていたという。

復刻された明治25年の江戸中の店の番付が店内に飾られている。天ぷらや蒲焼、茶屋などジャンル別に8店選ばれる中、蕎麦には「やぶ」「更科」に並んで「あさ田」の字が。

貴重な戦前のお品書き。「御膳ざるそば」の15銭という値段が、時代を物語っている。

街が遊び場だった浅草橋の思い出

昭和45年に生まれた粕谷さんが、昔の写真を眺めながら幼少期の浅草橋を振り返る。

「当時は、今のように江戸通りにマンションがなく、人形や花火、デコレーション小道具、プラモデルなどの専門店の問屋が多かったですね。小さい頃は自転車で浅草に行ったり、須賀神社で走り回ったり、街全体が遊び場の牧歌的な時代でした」

お店の前のはき掃除をする粕谷さん。一生懸命がんばる姿がかわいらしい。

育英小学校(現現台東育英小学校)、現在ヒューリック浅草橋ビルが建つ場所にあった福井中学校(現浅草中学校)を経て、高校・大学時代は、当時一世を風靡していたドラマ『スクールウォーズ』の影響でラグビー部に入部。青春の大半はグラウンドの上を駆け回っていた。

「おふくろから『あんたのお父さんが作る蕎麦は日本で一番美味い』と言われて育ちましたが、跡継ぎという意識が芽生えたのは大学の頃。確かに先代の蕎麦は美味しく、近隣の方にも好評でしたが、有名な店を食べ歩いたりメディアで見知った手打ちや蕎麦懐石など、よりこだわった様々な蕎麦屋に憧れがありました」

昭和42年に発行されたフリーペーパーでは表紙を飾った。

名だたる名店で心根と技術を磨く日々

先代が受け継いでいた蕎麦は、機械打ちのクラシックな二八。

昼が中心で、夜のつまみも定番の「蕎麦前」しかない。

それが若い時分にはステレオタイプに映り、時代に取り残される危機感が
あったと話す。

「自分が将来店を継いで、夜の酒肴を充実させる為に和食をしっかり勉強したい」
その切なる思いで、ラグビー部OBに紹介を受け「銀座ろくさん亭」の門戸を叩き、料理人修行を始めた。

「修行で一つの店だけでなく色々な店を経験したことで見識が広がりました」

「銀座ろくさん亭」は、和食に革命を起こしたと称される道場六三郎氏の創作和食店。当時、放映されていた人気番組『料理の鉄人』では“和の鉄人”として全国に名を轟かせ「日本で一番忙しい店」と言われていた。

そこで揉まれ、より伝統的な日本料理を学ぶ為に熱海の割烹旅館に移り、さらに数々のミシュラン三ツ星シェフ輩出した徳島の名店「青柳」の東京支店で研鑽を積み、今では一般的になった蕎麦飲みを世に広めた「新橋 本陣房」で手打ち蕎麦を学んだ。

店内には本陣房で蕎麦を打つ粕谷さん姿を描いた版画が飾られている。彫ったのは「本陣房」を紹介したラグビー部の先輩だとか。

「日本料理の真髄に触れた経験は大きかった。特に本陣房の親方には蕎麦の技術や商売の引き出しだけでなく、経営者としての心構え等、沢山のことを学びました」

機械打ちから手打ちへの挑戦

修行は大きな財産となったが、その反面、あるコンプレックスを抱いていたという。

「今は異なるかもしれませんが、和食の中で良くも悪くも変わらない蕎麦は、下に見られることが多かったんです。『蕎麦屋は霞を売っている』と言われたり」

さらに、修行から戻った2000年当時、世間で蕎麦屋の最高峰と評されていたのは自家製粉、手打ちの十割蕎麦。

「そういった“本物”の蕎麦を追求し、さらに夜は旬を取り入れた和食でお客様を満足させたい」

そう考え、改革を始めた。

戻った時は「俺が立て直す!」というファイティングスピリットが原動力だったと熱く語る。

まず一品料理を充実させ、夜の集客を増やすスタイルに変えたが、手打ちは先代に猛反対された。

「人が少なく物理的に無理だったのと、私にまだその技術が足りませんでした」

スタッフを入れて料理を教え、粕谷さんは蕎麦に集中し、徐々に手打ちに変えていったが、伝統の味を守るという意味でも全ては変えられなかった。

そこで粕谷さんは一計を案じる。

「暖簾を守ることに気負いは全く無かったですね。やりがいを残しておいてくれた先代には感謝しています」

蕎麦屋が一年で一番忙しい日は、大晦日だ

「あさだ」では例年、前日夜からスタッフ総出で蕎麦を打つが、ある年、粕谷さんはスタッフを帰し、夜を徹して一人で約500食の蕎麦を打ち切った。

泥臭く、粘り強く突き進んで、実力で勝ち取った念願のトライ——。

その日以降、「あさだ」の蕎麦はすべて手打ちになった。

文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗

「せいろそば」(700円)。水にもこだわり、蕎麦粉と合わせる水だけでなく茹でる水、洗う水にも特殊フィルターを通したイオン水を使用している。 [後編]伝統を守りながら進化する。 [江戸蕎麦手打處あさだ]8代目・粕谷育功さんインタビュー