花街として栄えた「柳橋」、400年の歴史を振り返る!【浅草橋の歴史を歩く。】

「浅草橋」駅東口の目の前を通る江戸通りを挟んで向こう側が、1丁目と2丁目で構成される「柳橋」という町である。

この柳橋、いまでは閑静な住宅街に見えるけれど、かつては政財界や芸能界など、あらゆる著名人たちが訪れる花街として知られていた。

その歴史は、明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」にまでさかのぼる。

江戸時代最大の被害をもたらしたこの大火事により、江戸の町は外堀以内ほぼ全域が焼け野原となったことを受けて、幕府は延焼を防ぐために〝火除け地〟を各所に設けた。

それを「広小路」と呼んだが、そのひとつである「両国広小路」が、ちょうど「柳橋」の対岸に、両国橋と江戸通りをつなぐ形で設けられた。

吉原への送迎を足がかりに花街として発展

《現在の「両国広小路」に残る石碑。江戸時代は繁華街として栄えていた》

両国広小路は、いわゆる防災目的の公用地であったが、平時は公園のようにして利用され、やがて人々が行き交う繁華街となった。「江戸東京博物館」には、当時の両国橋と広小路の模型があるが、そこには屋台や芝居小屋も建ち並び人々が盛んに往来する姿が再現されている。

《江戸時代の両国橋と隅田川。屋台が並んで賑やかなのが、両国広小路。(歌川広重『江戸名所百景 両国橋大川ばた』/安政3年 国立国会デジタルコレクションURL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312295/1)》

また、江戸最大の遊郭として知られた「吉原」が「明暦の大火」後に、日本橋葺屋町から浅草山谷付近(現在の台東区千束)に移転すると、そこを訪れる客の間で猪牙舟(屋根のない舳先のとがった細長い小舟)で隅田川を北上し、山谷堀(水路での吉原の入り口)へ入るのが流行った。需要に応える形で、「柳橋」には船宿が増えていく。しかし、船賃だけでは儲けもたかがしれていたため、船宿は次第に宴席の場も兼ねるようになった。

《『亀清楼』のルーツのひとつである『万八』は、歌川広重の浮世絵にも描かれた。当時から現在の『亀清楼』と同じ位置にあった(歌川広重『戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八』/天保6年頃 国立国会デジタルコレクションURL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1308405/1)。》

やがて、周辺には酒楼・料亭も軒を連ねるようになり、幕末にはその数も江戸随一となった。侍・商人に医者から、果ては僧侶までがここに集った。こうした酒楼には夏に汗を流すための風呂もついており、どこの店にも専用の浴衣までが用意されていた。こうして「柳橋」は花街として栄えるようになっていった。

花柳界でも一目置かれた江戸一番の柳橋芸者

《浮世絵『江戸名所百人美女』の「第六天神」には、柳橋芸者が描かれている。まくった腕についているのは「腕守り」というお守りで、密かに恋人がいることを暗示している(歌川豊国『第六天神』/安政5年 国立国会デジタルコレクションURL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1311395/1)。》

「柳橋」の発展を後押ししたのが、「辰巳芸者」の存在であった。

江戸花柳界のルーツともされる「深川」の花街が天保の改革による一斉取締で衰退すると、辰巳芸者と呼ばれた同地の芸者達が「柳橋」へ流れてくるようになった。これがやがて「柳橋芸者」となり、彼女たちは「柳橋」の対岸にあった「柳原同朋町」を住処として、橋をわたって船宿や酒楼・料亭に通うようになった。

女郎中心の吉原や品川に対し、芸を重んじる傾向にあった柳橋芸者の水準は非常に高かったらしい。江戸時代(幕末)の随筆『柳橋新誌』のなかで、成島柳北は当時(1859年)の彼女たちをこんな風に評している。

「江戸のなかで芸者が多く質が高いのは、柳橋が第一である。(中略)思うに柳橋の芸者は、化粧が薄く趣がある。意気は爽快そのもので、客に媚びることはない。世俗に言う〝神田上水を飲んで育った江戸っ子の心意気〟がある者で、深川の面影を残している」。

《柳橋芸者たちの日常を描いた小説「流れる」(幸田文)は、映画化もされている》

こうしたこともあり、柳橋芸者は江戸の粋を体現する存在で、花柳界では別格の存在であった。明治には「柳新二橋」と称された「新橋」の芸者たちも、座敷にともに上がれば柳橋芸者を立てるのが習いであったという。

柳橋花柳界400年の歴史を今に伝える街の風景

《現在の柳橋。奥に見える赤いマンションに休業中の割烹料理店(かつては料亭)『亀清楼』が入っている》

江戸・明治・昭和の旦那衆から格別に愛された「柳橋」だったが、昭和の中頃にはその勢いがおとろえていく。原因とされるのが、隅田川の変容だった。高度経済成長に伴う工業排水で隅田川の水質が一時悪化し、これに水害対策の堤防造成による景観の変化が追い打ちとなって「柳橋」の客足はみるみる減っていった。その後、川の水質改善と時代に合わせた経営シフトによって船宿は盛り返したものの、料亭や芸者が再び浮かび上がることはなかった。

20世紀も終わり頃になると、児童福祉法や労働基準法の影響で芸者の数が減り、さらに夜の遊びも多様化して花街はもはや遊興の中心地ではなくなった。これにより、「柳橋」でも料亭は少しずつその数を減らしていく。江戸時代の酒楼『亀清』と『万八』をルーツとする『亀清楼』もかつては伊藤博文に贔屓にされるほどの料亭であったが、昭和51年には割烹料理店に舵を切った。最後に唯一残った料亭「いな垣」も1999年を最後に閉店。これにより柳橋花柳界は400年の歴史に幕を下ろした。

《柳橋組合解散式。実質、この日を境に、柳橋から芸者という存在は消えた/写真提供「スナック ときわ」店主・島津一満氏》

上記写真は、芸者たちが足繁く通った「スナック ときわ」の島津さんからお借りした。往時を偲ぶ資料も多数保管されていて、それらを、「浅草橋を歩く。」編集部の1階にある古本屋「古書みつけ 浅草橋」にて閲覧することができる。

花街芸者も大好物だった「のりトースト」が有名!柳橋の老舗喫茶店「ときわ」

「柳橋」の町並みは花街時代から大きく様変わりしてしまったが、冒頭で取り上げた船宿をはじめ、今でもその名残りを見て取ることはできる。

《花街時代には船宿だった「小松屋」。現在、販売している佃煮はかつて近隣の料亭を訪れた客への土産物などとして利用され、著名人からも愛された》

なかでも、町にぽつぽつと残る古い日本家屋や、石塚稲荷神社の石塀に刻まれた「柳橋料亭組合」と「柳橋芸姑組合」の文字は、柳橋花柳界の在りし日の姿を今に伝えるものである。

[前編]昨日より今日、今日より明日、いいものを。「季節の佃煮 小松屋」四代目・秋元治さんインタビュー

「流れる」も、「古書みつけ 浅草橋」で取り扱っているので、柳橋にお越しの際は、ぜひ、お立ち寄りされたし。来訪の記念にと、購入される方が多いそうだ。

浅草橋に念願の書店が誕生!本に精通したスタッフが営む「古書みつけ 浅草橋」最速リポート♪

《浅草橋のアマチュアカメラマン・秋山武雄氏による、芸者さんの出勤風景(正月)》

そして、この町をよく知る、浅草橋の洋食屋「一新亭」の店主にして、アマチュアカメラマンである秋山武雄氏にも写真のご提供をいただいた。これらも「古書みつけ」店内に展示しているの。

秋山氏のロングインタビューもあわてお楽しみあれ。

浅草橋「一新亭」の主人にして日本で最後のアマチュア写真家・秋山武雄の見た下町

また、「浅草見附」の秘密に迫ったもうひとつの歴史深堀記事もあわせてお楽しみください。

浅草橋で起きた悲劇!明暦の大火と「浅草見附」【浅草橋の歴史を歩く。】

【柳橋】
東京都中央区東日本橋2-2

文・山口 大樹
写真・伊勢 新九朗 写真提供・秋山武雄