[前編]街が求めているものを創っていく。「HICRA.」「RUMCRA.」のオーナー 千葉潤一さんインタビュー

当たり前の話だが、街は過去によって形成される。

時代とともに暮らす人々や商う店、文化施設、教育機関等が根付き、移り変わり、独自のカルチャーが醸成される。

ここ浅草橋は、江戸時代より神田川と隅田川の合流地点に位置する交通の要衝として栄え、人形問屋の街として始まった。

そして、昭和30年代頃の高度成長期に玩具や文具、店舗装飾品等を扱う問屋が軒を連ねるようになり、現在も国内有数の問屋街として知られている。

その街で、次代を担うキーパーソンとして地の人間から厚く信頼されているのが、昨年、そして本年に『ハイクラ』『ラムクラ』という専門店を立て続けにオープンさせた千葉潤一さんだ。

炭酸から選べるハイボールが楽しい!浅草橋で最高の2軒目としてお勧めしたい「HICRA.(ハイクラ)」に行ってきた 【閉店】女性にもおすすめ!ラム酒とクラフトビールの専門店「RUMCRA.(ラムクラ)」に行かない理由が見当たらない。

今回、千葉さんの、激動の半生とともに、新しい世代だからこそ見える浅草橋の魅力、見据える未来についてうかがった。

生粋の浅草橋っ子が育った、華やかなりし街の記憶

「浅草橋1丁目同士のハイブリッドです」

そう笑う千葉さんは、生まれも育ちも浅草橋。

明治10年創業で三代続く生花業を営む母方と、神田川沿いで十数代に渡って受け継がれてきた名医をルーツに持つ父方の子として、昭和55年に生を受けた。

父方の千葉医院は、日本で初めて耳鼻咽喉科を始めた。千葉さんの祖先の中には、幕末から明治時代に活躍した政治家、山岡鉄舟の主治医も。

父方の千葉医院は、日本で初めて耳鼻咽喉科を始めた。千葉さんの祖先の中には、幕末から明治時代に活躍した政治家、山岡鉄舟の主治医も。

「子どもの頃はバブル全盛期。まだ柳橋に料亭があって芸者さんもいて、力士や文化人が界隈で遊んでいたので、今とは比べものにならないくらい街は華やかでしたね」

母方の祖父は、生花市場をやりながら卸と小売りの商いもする日本初の会社を営んでおり、少年時代の千葉さんの遊び場はもっぱら店だった。

「学校帰りに店に寄って、母が仕事が終わるまで遊んで。その母や祖父の背中を見て育ったので、いつか自分も社長になりたいって自然に思っていました」

幼少期の千葉さんとお母さん。「小学校の教科書に『浅草橋は日本最大の卸問屋の街』と書いていたくらい、この頃は街に勢いがありましたね」

幼少期の千葉さんとお母さん。「小学校の教科書に『浅草橋は日本最大の卸問屋の街』と書いていたくらい、この頃は街に勢いがありましたね」

花の本場、イギリスで送った地を這う生活

中学に上がり、今では考えられないほど治安が悪かった隣町の秋葉原でストリートカルチャーに触れ、入り浸っていた頃に祖父の生花市場を手伝うようになった。

そして、高校卒業後にアメリカの大学に留学。
22歳の時、家庭の事情で帰国した際に手伝った生花の販売で花のデザインの面白さに目覚めたという。

「ただ、その時に用意されていたのは経営者のレール。そこにカチンときて、自分の金で行くからイギリスに留学させてくれって直談判して」

フラワーアレンジメント発祥の地であるイギリスに渡った。

2001年に千葉さんが一時帰国した時に撮影した店舗。当時は約30店舗展開していたという。

2001年に千葉さんが一時帰国した時に撮影した店舗。当時は約30店舗展開していたという。

当時は1ポンド200円の時代。

仕送りだけでは家賃も払えず、「外に出ないと天気すらわからない」窓のない2畳半のボイラールームで暮らし、毎日、学校で花を学んだあとは朝までパブで働く生活を1年半続けた。

「文字通り地獄のような日々でしたが、ロンドンに根付いているパブ文化を体感できたのはいい経験になりましたね」

「イギリス時代はカーテンを買うお金もなく、代わりに黒い画用紙を貼ったりするどん底の生活でした」と当時を振り返る。

「イギリス時代はカーテンを買うお金もなく、代わりに黒い画用紙を貼ったりするどん底の生活でした」と当時を振り返る。

そして、フラワーコーディネーターの資格を取得し、オランダとイタリアで現場経験を積んだあと、帰国することに…。

“社長兼アルバイト”の波瀾万丈の日々

「ヨーロッパで修行したフラワーコーディネーター」の鳴り物入りで帰国したが、待っていたのは母が経営する赤字の本店だけだった。

帰国後、千葉さんはフラワーアレンジメントの本場で得たセンスと若い感性で、話題のホテルや店舗を手掛けた。

帰国後、千葉さんはフラワーアレンジメントの本場で得たセンスと若い感性で、話題のホテルや店舗を手掛けた。

帰国後、千葉さんは店舗の現場で働きながら新しい会社を立ち上げた。

一時はITバブルの波に乗り、15人の従業員が80人になるほど業績は伸びたが、バブル崩壊と共に契約していた2つの結婚式場が倒産。テナントに入る際に納めていた5000万円の保証金が借金に変わった時、雇っていた社長が逃げ、千葉さんは27歳で社長に就任した。

「社長といっても役員報酬はゼロで、前年の税金も払えない状態。そんな時に飲食経験があったことから、友人の紹介で銀座のオーセンティックバーと高級クラブで働くことになったんです」

昼は80人の従業員を抱える花屋の社長をやりながら、夜は週に6日夜の銀座でアルバイトをする日々。その時に飲食業の楽しさを実感したと話す。

「クラブのウェイティングカウンターを一人で回していたんですが、花屋をやっているだけでは絶対に会えない上場企業の社長や錚々たる方々と交流できたことが本当に勉強になりましたね」

「社長をやりながら銀座で働いていた頃は、本当に大変でしたが、その頃があるからこそ今日があると実感しています」と当時を振り返る。

「社長をやりながら銀座で働いていた頃は、本当に大変でしたが、その頃があるからこそ今日があると実感しています」と当時を振り返る。

「やりたいことをやる」リスタートに待っていた現実

稼業を継いで、昼と夜に寝る間も惜しんで働きながら1年経ち、資金繰りに余裕ができた頃、千葉さんは切に思った。

「次は本当にやりたいことをやりたい」

それまでは稼業を“守る”ことが第一だった。

でも、これからは「好きなことを形にして世に出したい」と “攻め”にギアを変え、飲食部門として、銀座でノウハウを学んだバーとその頃夢中だった自転車を組み合わせた『KUHNS BAR』(クーンズバー)をオープン。

『KUHNS BAR』の常連さんや仲間たちと。オープン初年度に100社以上のメディアで取り上げられる程、業界内で話題となった。

『KUHNS BAR』の常連さんや仲間たちと。オープン初年度に100社以上のメディアで取り上げられる程、業界内で話題となった。

店内で流れる自転車のムービーを見ながらお酒が楽しめ、さらに自転車のパーツも販売するという当時どこにもなかったスタイルは、ピストバイクブームも相まってメディアに注目され順調なスタートを切った。

その2年後にリーマンショックが訪れ、生花部門の業績が落ちてきた頃に東日本大震災が起こった。

その翌日、翌々日のブライダルがキャンセルになったが、天災で補償もなく2日で2500万円の負債を抱えることに。さらに、その当時あった家族の負債も合わせると7000万円。すぐに返せる余裕はなかった。

「もう毎月25日が近づく度に逃げ出したくなるほど追い込まれていて。でも40人の従業員に迷惑はかけられない。なので、KUHNS BAR以外の店舗を手放し、負債を僕個人のものに切り替えたんです」

31歳、バー1軒、借金7000万円での再スタートだった。

(後編へ続く)

文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗