浅草橋最古参の立ち食いそば屋「ひさご」八っちゃんインタビュー

東京を代表する江戸前料理のひとつ「蕎麦」。

その歴史は古く、江戸時代中期から後期にかけてつなぎを使った蕎麦が主流になったと言われている。当時の江戸の町は参勤交代などで男性の単身赴任者が増え、1657年頃浅草にできた一膳飯屋を皮切りに、気軽に蕎麦が食べられる店が人気を博した。

言わば蕎麦は日本のファストフードの源流であり、立ち食い蕎麦はその流れを受け継ぐスタイル。ここ浅草橋では、最盛期には日本蕎麦屋を含む10軒以上の蕎麦屋がひしめ合う密かな激戦区だったが、その中で誰もが知る存在なのが高架下の『ひさご』だ。

街で商いをする人たちに取材をすると、みな一様に口を揃える。
「『ひさご』にいかなきゃ」

「八っちゃんに聞けばいいよ」

ただ「安い、早い、美味い」だけじゃない。

昨今の疫病下でも変わらず人がひっきりなしに訪れるその魅力を探ってみた。

クラシカルな江戸流立ち食い蕎麦

浅草橋駅東口を出て高架下を歩いていると年季の入った「そば うどん ひさご」の看板が目に入る。雑然と荷物が置かれた狭小店の暖簾をくぐると、中は大人5,6人がぎりぎり入る小さいL字カウンターのみ。立ち食い蕎麦屋では珍しい年代物の製麺機が長い歴史を物語っている。

AMラジオが流れる中、温かいたぬき蕎麦を注文し、代金をカウンターに置く。

ふと壁に目をやると「当店では米類の販売はしておりませんので、持込でお願いします」との貼り紙が。「しておりません」で終わるのではなく、持ち込みをお願いしているところが面白い。

冷やしそばとうどんは1年中食べられる。

ほどなくして供された蕎麦は、まさに関東のクラシカルな立ち食いのそれだ。

濃色のつゆに細めの蕎麦、見るだけで味が「しゅんで」いそうなお揚げに刻みねぎ。

たぬきそば360円。

まずはつゆをひと口。かえしは濃いめだが醤油のとがりはない。ふわっと香るかつおの出汁が調和して滋味深い味わいだ。そのつゆに浸し、蕎麦をすすると程良いコシ。噛むほどに蕎麦の風味がほんのり漂い、ズズズっと箸が止まらなくなる。しっかり甘辛いお揚げを挟みながら一気に完食した。

まさに万人に愛される王道の立ち食い蕎麦だが、平日の夕方前という中途半端な時間でもひっきりなしに人が行き交うその本当の魅力は、店主の“八っちゃん”にあった。

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「ヘタすりゃ死んでたかもしれない」戦中生まれの江戸っ子

「取材よりもよ、みんなの店が潰れちゃうかどうかが心配だよ。きついって。うちは酒も出さないし、5分くらいで食べて出るからコロナとか関係ないんだけど」

とっかかりの世間話に「コロナ禍で大変ですか?」と聞いたら、いきなりの丁々発止。

まさに江戸っ子を地でいく八っちゃんは、昭和20年、赤羽の岩淵で生まれた。

「浅草橋に住んでたんだけど、ちょうど3月に空襲があって疎開先で生まれたんだよ。生まれた4日後にここら辺が空襲に遭って焼け野原。ヘタすら生まれてなかったかもしんない」

Tシャツにねじり鉢巻きが八っちゃんの定番スタイル。

八番目の子どもだから「八郎」。生家は母親が魚屋を営んでいた。

その場所は現在『HICRA.』に受け継がれている。

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「子どもの頃の浅草橋? な〜んにもなかったよ。そうだ、この本が面白いんだよ。友達が出していて、俺のおふくろが乗ってる」

と見せてくれたのは、『東京レトロ写真帖』。「三色ライス」でお馴染みの『洋食一新亭』店主、秋山武雄さんが東京の下町を撮り続けた写真集だ。

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その中に、鏡台の前に座る母上の日常が切り取られている。

店に置いている『東京レトロ写真帖』。「優しい母親だったよ」。

「裁縫が好きな、昔ながらの貞淑な人だったな。父親は朝、築地に出て、毎晩浅草に繰り出す遊び人。誰かに聞いたんだけど、あのこまどり姉妹が有名になるまで育てたとかいってたな。遊んだ記憶はないけど、粋ないい男だったよ」

浅草橋最古参の立ち食い蕎麦屋の原風景

中学校は浅草橋、高校は文京区白山下にあった京華商業に通っていた八ちゃんの思い出は、もっぱら都電だ。

「駅前に都電が走っててね。22番の南千住行きと31番の三ノ輪行き。22番は松屋の脇を取って南千住まで行って。31番は蔵前の交差点を曲がって、合羽橋と松が谷、大鳥神社を通過して三ノ輪まで行く。池袋までいって乗り換えて白山まで行ってたのをよく覚えてるよ。ガキの頃はさ、五寸釘の長いやつあんだろ? それを線路に置いて潰して手裏剣にして遊んでたね。今やったら怒られちゃうだろうけどさ(笑)」

「この辺りの飲み屋で一番古いのは銀杏八幡神社前の『むつみや』じゃないかな」。

戦後の昭和30年代は、浅草橋の街自体が遊び場だった。

「ひさご」が開店したのは、昭和35年頃。女将さんの父親が、現在セブン-イレブン浅草橋1丁目店がある場所の前で天ぷら屋を営んでいたが、知り合いから「これからは立ち食いそばがくる」と勧められ、再開発の立ち退きを機に高架下に移転したという。

当時、東京に立ち食い蕎麦屋はほとんどなかった。つまり最古参店の一つだ。

40年以上この地で街を見守り続けている。

その後、昭和39年に開催された東京オリンピックを機にガラリとこの街の風景が変わる。

「人形や玩具、生地とかとにかく問屋が多かったから、電車が止まると東口の階段が風呂敷持った商売人で真っ黒になってたよ。当時配送なんかなかったからね。一般の人も地方から洋服とか買いにきてたんだ。景気のいい時代だったよ」

証券会社の秘書から蕎麦屋へ

八ちゃんは高校卒業後、すぐ商売人に、と思いきや意外にも就職したのは証券会社。

「東京で俺一人だけ、人事課で秘書やってた。想像つかないだろ?(笑) 家業の魚屋は兄貴が継いで。もういま兄弟は4人しか残ってないけどね」

そこで数年働き、女将さんが子どもを身ごもった昭和48年に『ひさご』に入るようになったという。当時はかけそばが50円、ラーメンが25円の時代。ほどなくして義父から店を継いだ。

かけそば300円は、街でも最安値だ。

証券会社から畑違いの客商売への商い変えに苦労はなかったのだろうか。
「全然ないよ。父親の時代は天ぷら、きつね、たまご、たぬきくらいでメニューが少なくて蕎麦も日本蕎麦屋から茹でた麺を買ってたしね。そこから俺が色々変えたんだよ」

以来40余年、昭和、平成、令和と、時をかけて厚く支持され続ける蕎麦の秘密とは――。

(後編へ続く)

浅草橋は立ち食いそばの聖地!? 40年選手の製麺機でつくられる「ひさご」の蕎麦の秘密

文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗