浅草橋駅西口駅前の喫茶店『SMELL』は、昭和30年代に創業して以来、激動の昭和から平成を経て、ひっそりと営業を続けていた。
現在、お店を一人で切り盛りするのは、両親から受け継いだ2代目の西出栄子さん。
名店のパンを使ったサンドイッチと変わらない姿勢がつくる、どこにでもありそうで「どこにもない」店の魅力とは——。
[前編]「変わらない」人間交差点。浅草橋の純喫茶『SMELL』西出栄子さんインタビューシンプルなのに「ここにしかない」サンドイッチ
目の前に供されたのは、耳をカットした食パンで挟んだハムとキュウリ、そして、薄焼きのタマゴ。
これ以上ないくらいに、オーソドックスなミックスサンドだ。
さっそく、ひと切れ手に取り、いただく。
パンは、いま主流のフワフワな食感かと思いきや、キメが細かく、みっちり濃厚。噛むほどに素材の風味が口中に広がり、シンプルな具材と合わさったとき、「知っているあの味」が特別なものになっている。
続いて、同行の編集長が注文したチーズオムレツトーストが運ばれた。
隣から、「おほっ」と漏れた声にならない声を聞いて、辛抱たまらず頂戴する。
トーストすることで、パンがより芳ばしくなり、カリっと軽快な歯切れと共にチーズのコクと旨味が具材を包み込む。添えられた塩が、全体の輪郭を際立たせているので、味わいもしっかり。
シンプル極まりないのに、どこにもない。
そんなサンドイッチがお店そのものを現していた。
東京を代表する老舗のパンに込めた思い
このサンドイッチの要となっているのが、浅草の名店『ペリカン』の食パンだ。
ペリカンは、昭和17年、浅草・田原町で創業。
食パンとロールパンの2種類だけで、「毎日食べられる、飽きのこない味」にこだわり、今ではドキュメンタリー映画をはじめ、各種メディアにとりあげられている東京屈指の老舗パン店だ。
毎朝、開店前から客が行列を作り、予約をしないと買えないこともある名店の食パンを、SMELLでは開店当初から使い続けている。
「ペリカンが創業したての頃、父が食べて気に入ってから、ずっと同じ。余計なものを入れていないから、そのままでも美味しいんです」
栄子さんは子どもの頃から親しんでいたので、結婚後に初めて市販の食パンを買ったとき、味の違いに驚いたと笑う。
「スーパーで買ったら美味しくなくて。だから、よく店から2、3切れもらって帰って母に嫌な顔されましたねぇ」
現在でも毎朝届けてもらい、注文ごとに切り立てでサンドイッチを仕立てる。
付き合いが長いので、パンがなくなりそうなときは融通してくれることもあるとか。
レトロな純喫茶に新しい風が吹く
そのペリカンのパンが、新しいお客さんを呼んだ。
ペリカンがメディアで取り上げられ知名度が全国区になったことで、週末になるとサンドイッチ目当ての若い女性が訪れるという。
さらに、「昭和レトロ」ブームや「SNS映え」も相まって、SMELLに新しい風が吹き込んでいる。
「雑誌か何かで見たのか、ブックマッチやコースターをくださいってお嬢さんが来ます。火が着かなくてもいいっていうから、あなたが生まれる前からあるかもしれないね、なんて言ってあげてます」
栄子さんは不思議そうに首をかしげるが、なんだか嬉しそうだ。
街が求める「変わらない場所」
取材中、ふと思ったが、今、都内のどこの喫茶店やカフェでも聞こえるキーボードのカタカタ音が聞こえない。
店を訪れるお客さんは、新聞を読んだり、流れるテレビをボーッと見てタバコを吹かしたり、思い思いの時間を過ごしている。
これが喫茶店の原風景なんだろうが、今となってはなんだか新鮮だ。
最後に栄子さんに、店をする上で大事にしていることを聞いた。
「ないですね。ボロ屋だからきれいに掃除することくらいかな」
浅草橋への思い入れも「ない」と即答する。
「そういえば、こないだ若い男の子が来て、3日前に浅草橋に引っ越してきたんですけど、布団ってどこで買えますか? って聞かれて。そしたら常連さんが、どこどこがいいよって教えてました。珍しいですよね、今どき」
様々な人間が交差するこの場所は、まだ、浅草橋が必要としているのだ。
文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗