白雉二年(651年)創立と伝えられ、1370年の歴史をもった由緒ある鳥越神社。
インタビュー前編では、鳥越神社の成り立ちから景観に始まり、浅草橋の一大行事である鳥越祭と町の人々との深いかかわりなどについてお話をうかがうことができました。
後編ではさらに、鏑木啓麿(かぶらきひろまろ)宮司の人となりに迫りつつ、神社やお祭り、この町に対しての想いを語っていただきます。
自衛官を経て鳥越神社の宮司に
鏑木家が鳥越神社の宮司を務めるようになったのは、およそ江戸時代の初期からだそうです。
啓麿さんは、そんな鏑木家に第十九代(先代)宮司の嫡男として生まれました。
少年期は育英小学校、福井中学校に通い、神社の境内を遊び場にしていたのだとか。
「普段はここで、近所のみんなと鬼ごっこしたり、三角ベースしたりして。よく『うるさい!』って怒られたよ。」
と、笑いながら当時の思い出を振り返っていらっしゃいました。
これだけ聞くと、普通のわんぱくな子ども時代を過ごされたようにも思えますが、一方で、
「3歳の頃から白衣袴を着て、『神前に座ってろ』っていさせられてさ。(中略)当時は何もわかんないけど、とにかく(奉職を)見て覚える。」
「お祓いの言葉とか……小学生の頃から七五三やらなんやらで、手伝いで読んでたよ。」
という、神社の子どもならではのエピソードも教えてくださいました。
それにしても、そんな幼少期から神社での仕事にしっかりと携わっていたなんて驚きです。
中学校を卒業後は、陸上自衛隊少年工科学校へと進まれます。
現在の高等工科学校と異なり、当時は入学とともに階級が与えられ、国家公務員の扱いとなり、衣食住が保障されて俸給もありました。
その後は、大宮通信補給所整備部に勤務しながら、夜は通信制で資格の勉強に追われる多忙な日々が続いたそうです。
こうして11年間にわたり自衛官を務めていましたが、やがて鳥越神社の次代宮司になることが決まり、永田町の日枝神社で3年ほど神職を学び直したあと、平成2年に鳥越神社第二十代宮司を拝命されました。
元自衛隊、ましてや少年自衛官という経歴は、神主さんではかなり異色とのこと。
しかしながら、鳥越神社の宮司として、町やお祭りをまとめ上げる立場を30年以上も務め上げてこられた実績には、きっと自衛官として心身ともに鍛え上げられた経験が裏付けとしてあるに違いありません。
鏑木宮司にとっての鳥越祭とは、
「お祭りがあって、お店開いて『さあ、いらっしゃい!』っていうのが浅草。『お祭りだから!』って店を閉めてお祭り一生懸命やるのが鳥越。」
前編でもご紹介したこちらの言葉からもわかるとおり、町の人々が並々ならぬ情熱を注いでいる鳥越祭。
当然、鏑木宮司の場合も子どもの頃から先頭に立って参加しているのかと思いきや、お祭り当日は手伝いで裏方に回ることがほとんどだったそうです。
むしろ、神輿を担いだのは、家を離れ、自衛官として休日を使い参加したときの数回だけなのだとか。
意外でしたが、言われてみれば確かにそうで、神社の人々然り、運営の方々の働きがあってこそお祭りは成り立っているのですね。
威勢よく血気盛んな人たちが千貫神輿を担ぎ、賑やかに町を練り歩く様子が全国的にも有名な鳥越祭。
しかし、それゆえに、過去には困った時期もあったそうです。
昭和の終わりから平成初期にかけ、氏子の人々とは別に、神輿を担ぐことを目的に結成された同好会の参加も増えました。
その中には、本来の例大祭としての意義を考慮せずに不行儀な者たちもおり、お祭り自体が荒れてしまうことも多かったのだとか。
その後、鏑木宮司をはじめ、運営の人たちが試行錯誤を重ね、諸々の規律や治安を整備したおかげで、現在の皆が安心して楽しめるお祭りが戻ってきたようです。
そんな大変な思いもしてきた鳥越祭。
それでも鏑木宮司は、「毎年毎年『良かった』と思う」とおっしゃいました。
宮司は馬に跨り、千貫神輿の行列の最後尾について町を巡ります。その際、このお祭りを心待ちにしていた人々の顔を眺めるそうです。
普段なかなか会えなかった人が手を振ってくれたりすると、「今年も元気だったんだなあ」と安心し、そのような温かい気持ちを各所でもらいます。
鏑木宮司にとって、鳥越祭は支える側、見守る側でありながら、自身も元気をもらえる年に一度の大切な行事なのでしょう。
コロナ禍でも絶やさない神社と街の交流
しかしながら、そんな鳥越祭もこの長引くコロナ禍のあおりを受け、2年続けて大々的な開催の中止を余儀なくされました。
昨年は神輿渡御の代案として、感染予防対策を実施したうえで神社の大太鼓巡幸が行なわれました。
これも本来は子どもたちに太鼓を叩かせてあげる予定でしたが、緊急事態宣言が発令されたことを受けて自粛となったそうです。
今年2月の節分も、例年であれば境内で盛大な豆まきが行われるはずが中止となっております。
ただ、それでも子どもたちに向けて、お菓子の詰め合わせの福袋が配布されました。
このように、神社の一大行事が軒並み取りやめになりながらも、規模を縮小し、形を変えてでも必ず開催されるのには、鏑木宮司の思いがありました。
「お祭りはできないけど……お神輿は担げないけど、何かはやっぱり、町の人、お子さんたちに残してあげたい。何かしらしてあげられたら……。」
おそらく、今後たとえどんなに難しい状況であっても、その中での最善のやり方で鳥越祭は開催されることでしょう。
前編でも触れたように、鳥越の歴史や伝統文化を変わらず後世に受け継いでいくことも、鳥御神社の役目のひとつです。
そのお役目を果たすべく、鏑木宮司は鳥越神社の宮司として、コロナ禍に立ち向かっているように感じました。
町に笑顔と活気を取り戻したい
最後に、2022年の鳥越祭について鏑木宮司から町の人々へ向けたメッセージをいただきました。
「なるべく例年に近い形で、今年もお神輿が出せればいいなと考えています。(中略)お神輿が皆さんもとに行き渡るようにいろいろ考えて、氏子町会と相談しながらやっていくつもりですから、楽しみにしていてください。」
今回、穏やかな語り口調でいろいろなお話をしてくださった鏑木宮司。
威厳と優しさを兼ね備えたようなお人柄がとても印象的でした。
早く鳥越祭が本来の様相を取り戻し、馬に跨りながら、千貫神輿と大勢の観衆を見守る宮司のお姿がまた拝見できることを切に願っております。
文:小林
撮影:伊勢 新九朗
[地図]〒111-0054 東京都台東区鳥越2-4-1