食に関して、自分が暮らす街にあれば安心するジャンルの最たるものが“昔ながらの洋食”だろう。
日本における洋食は、幕末から明治期にかけて西洋人のための西洋料理店をルーツに持つ。その後、そういった専門店で研鑽を積んだ日本の料理人が日本人向けにアレンジし、ポークカツレツやオムライス、エビフライといった日本独自の料理が生まれ、市井の食文化として根付いてきた。
かつて国内有数の問屋街として栄え、いま新旧の多彩な飲食店がひしめく浅草橋にも、地に足のついた洋食屋がある。
その中で、知られざる街の名店として浅草橋人に支持されている『気まぐれキッチンIshibashi』の店主、石橋徹さんに料理人としての半生と、そのこだわりなどについてうかがった。
専門店顔負けの肉感あふれるハンバーグ
「気まぐれキッチンIshibashi」は、JR浅草橋駅東口近くのビルの地下にひっそり佇む。簡素な看板の上には「7日仕込みのカレーライスあります」の手描き文字。これだけで期待感が高まる。
平日の昼過ぎに訪れ、緑で彩られた空間の階段を下って入ると、店内は一人でも入りやすそうなカウンターとテーブル席が広がる。カウンターに腰をかけ、9種類の中からメインが2種類選べる定食の中から、一番人気というハンバーグとポークソテーを注文した。
厨房の奥から聞こえてきたペチッペチッペチッと手でこねる軽快な音に心が躍る。
ほどなくして、褐色に艶めく大ぶりなハンバーグと分厚いポークソテーが供された。
この佇まいだけで幸せホルモンのセロトニンが脳内で分泌されたのは言うまでもない。はやる気持ちをおさえ、ハンバーグをひと口。超粗挽きのゴツゴツとした肉々しさが口中に広がり、思わず「うほっ」と声が漏れる。濃厚なデミグラスソースがご飯に合うことこの上ない。
続いていただいたポークソテーは程よく柔らかく、噛むほどに豚肉の旨味と上品な甘みが押し寄せる。さらっとしたシャンピニオンソースが風味高い。
ともにひと口食べただけで、激戦区で20年以上続く理由がわかった。
街の洋食屋レベルを超えた食材へのこだわり
「肉料理は、歯ごたえと食べごたえがないとね」
厨房から出てきた店主の石橋徹さんが柔和な笑顔で教えてくれた。
豚肉は、脂の融点が低く甘くて口溶けのいい「山形豚」や、近年スーパーフードとしても注目を集める亜麻仁を加えた飼料で健康的に育て、さっぱりとした脂が魅力の「オメガ爽健豚」、千葉県産の銘柄豚「いも豚」などを厳選。冷凍ものは一切使わず、牛肉はA5ランクの仙台牛を使うこともあるという。
さらに魚介は夏の時期なら鮎など四季の旬を重視し、ほかにも主に北海道で食べられる“幻の高級魚”八角など、珍しい地魚が入ることも。
目の前に出してもらった豚肉の塊の迫力に驚いていると「豚肉の目利きは親類のとんかつ屋に教えてもらって。自分は和食出身だから」と石橋さん。
さぞ著名な洋食屋出身かと思っていたので、少し驚いた。
聞けば22年前、そのとんかつ屋の跡地に「気まぐれキッチンIshibashi」をオープンさせたという。
和食の料理人として渡り歩いた修行時代
石橋さんは東京・大塚で生まれ、千葉・我孫子に移り昼夜それぞれ米を一升炊く男だらけの四兄弟で育った。
高校の頃からアルバイトで居酒屋のキッチンに入っていたが、大学時代に地元の人に紹介されて府中の小料理屋で本格的な料理の道に入った。
「当時は履歴書なんていらなくて、包丁3本と着替え2、3枚だけ持って寮に入って。そこから1年家に帰らなかった」
当時はバブル前の時代。右も左も分からなかったが、和食を基本からたたき込まれた。
「冬でも真水で手の色が変わるくらい河豚を洗ったり、繁忙期で1ヶ月3000人のお客さんを4人でさばくような環境で、とにかく厳しかったね」
そこで、段取りの重要性だけでなく、法要が多い街の環境ということもあり、法事とお祝い料理の皿の違い等、和食会席のしきたりも学んだという。
現代の若い料理人は一つの店で10年以上修行を積むことが当たり前だが、当時の料理人は技術をつけて渡り歩くのが常。石橋さんもその後、柏の河豚料理屋で河豚調理師の免許を取り、200人キャパの松戸の河豚屋、50人クラスの宴会が頻繁にあった曙橋の牛タン屋、そして立ち上げやメニュー開発から携わった初台のダイニングバーなど10数年の修行を経て、ここ浅草橋に流れ着いた。
今でも守り続ける「基本は裏切らない」
修行で培われたのは「とにかく手を抜かない」という信念だという。
「たとえば魚をソテーする時にきっちりお酒をとばして臭みを取ったり、ちょっとしたことを積み重ねを怠らないこと。基本は裏切らないですから」
そう話す石橋さんに、和食の料理人として修行を積みながら、なぜ洋食屋を始めたのか聞いた。
「ひねくれているからかもしれない(笑)。……当時の浅草橋は和食屋ばかりで洋食屋がほとんどなかったからね」
駅前の好立地だったが、目立たない地下ということもあり、最初の2、3年は閑古鳥が鳴いていたが、徐々に口コミで評判が広がり、今では地元人や在勤者だけでなく、わざわざ違う駅から通うリピーターに愛されるお店になった。
確かな味もさることながら、店名に冠した“気まぐれ”の秘密が、いち客をファンに変えていた——。
(後編へ続く)
文:藤谷 良介
写真:伊勢 新九朗
【店舗情報】
気まぐれキッチンIshibashi
住所:東京都台東区浅草橋1-20-1
営業:11:30〜14:00(L.O.)、17:30〜24:00
定休日:日曜・祝日