柳橋から今戸橋まで……「船徳」粋と見栄の舟遊び【江戸落語なりきり散歩帖 】

「古典落語を聴いていると江戸の風景が浮かぶ」なんてことをいう。噺家の稽古と時代考証、そして聴き手の想像力の賜物だ。
とはいえ、初めて落語を聴く人にとってみたら、現代の景色でしか脳内再生されずにイマイチわかりにくいなんとこともあるらしい。

そんなわけで、落語のなかの江戸の町をタイムスリップでご案内。モブキャラになって、登場人物たちと一緒にストーリーの中を歩いてみようという趣向だ。

今回は、夏の噺で「船徳」。この噺は、「お初徳兵衛」という人情噺が元ネタなのだが、初代三遊亭円遊が面白おかしく改作して一席にしてしまった噺である。しかも、作ったのは明治でいわゆる新作だから、噺の舞台は江戸なのにコウモリ傘が出てくる塩梅だ。

柳橋と浅草橋、明治(三代広重/明治開化三十六景・柳橋から浅草橋)と現代の比較(同じあたりからの写真と対比)

「船徳」で柳橋から今戸橋まで

さて、大店の若旦那・徳兵衛。遊びが過ぎて本気で勘当され、家を追い出されてしまった。徳兵衛は贔屓の船宿・大松にお世話になることとなり、二階の居候へと落ち着いた。

大松は柳橋の船宿だ。柳橋は江戸中期からある古い花街。天保の改革で深川の岡場所が廃止になると辰巳芸者たちも柳橋に移り、一層賑やかになった。近くの花街としては新橋があるが、柳橋の芸者は新橋よりも格上とされたという。

歌川広重・江戸高名会亭尽「柳ばし夜景」奥には万八楼がみえる

芸者は料亭に呼ばれ、芸で宴席に花を咲かせる。
柳橋の料亭と言えば、「万八楼」があった。安政年間に「亀清楼」となり、両国が近いこともあり角界とも縁が深く、横綱審議会が開かれる会場でもあった。

柳橋のたもとにあった料亭「亀清楼」。伊藤博文元首相をはじめ、政治家や歌舞伎役者、文士といった各界の一流の客に愛されていたと伝わる

河岸にずらりと並ぶのは船宿だ。隅田川には多くの渡しがあり、船着き場も多かった。柳橋は、山谷堀入口の今戸橋にあった大桟橋との往復が専門で、吉原に向かう客たちが相手。舟で吉原に行こうっていうんだから、それなりの旦那が集まってくる。

「浅草橋」から「柳橋」を望む

船宿は猪牙舟(ちょきぶね/猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟)を出すタクシー会社のようなものであると同時に、休憩所や待合所の役目もあった。
遊び慣れた衆は、柳橋の船宿の二階でさらりと酒で唇を濡らし、贔屓にしている船頭を指名する。接客をしながら船頭を仕切っているのは船宿の内儀(おかみ)さん。内儀に何も言わずとも二階に通されたなら、いっぱしの粋人だ。
舟に乗り込み、贔屓の船頭がやってくる。内儀が舟を押し出し「左様なら、ご機嫌よく」と見送ってくれる。

舟遊びは、お店の旦那衆や若旦那などが見栄を競う場面でもあり、船頭もビジュアルが重視された。江戸の三男といえば、火消しに与力、力士だが、いなせなら船頭だって負けやしない。人気の船頭は、芸者衆にもモテたそうだ。

歌川国芳・東都名所「両国の涼」右が猪牙舟、左が屋根舟。夏は舟に乗っての花火見物が贅沢な遊びだった。

そんな船頭たちを二階から眺めていた居候の徳さん。どうせ勘当されて家に戻れないんだったら、カッコいい船頭になってみたい。しかし、船頭は「竿は三年、櫓は三月」と言われ、おいそれとなれるものではない。親方は反対したが、若旦那の押しに負けて「船頭の徳さん」として修業が始まった。

さて、旧暦の8月半ば。秋も近くなったというのに江戸の残暑はきびしい。こんな日の移動は涼しい船に限る。

大松に、「浅草寺に四万六千日のお詣りに行きたいんだけどね、大桟橋までやってもらいたい」というお得意様が二人連れでやってきた。あいにく船頭たちは留守。徳兵衛がひとり所在なく居眠りをしていた。

「なんだい、内儀(おかみ)。船頭なら居るじゃないか」
「いえ、あれはあれなんですよ、ほほほ……」

徳兵衛はまだ修行中。先日も、舟をひっくり返して客を川に落っことしたばかりだ。

「わかった、客待ちなんだろう? なあに、大丈夫だよ、馴染みじゃねえか。大桟橋まで着いたらすぐに帰すからさ」

徳兵衛のほうはというと、舟を出せるのがうれしくってたまらない。内儀も仕方なく徳兵衛に船頭をさせることにした。

舟に乗ろうと宿から出ると、川風が吹き抜ける。もやった舟に乗り込み竿を張り、舟は隅田川へと滑りだした。

猪牙の合間をすいすいと漕ぎ、他の猪牙を追い越したら酒手をはずむのがお約束。そうやって客同士で見栄を切るのだが、この徳兵衛ときたら同じところをぐるぐるまわってばかり。一向に先に進まない。

「おい、大丈夫かい」
「ええ、ここらでいつも2回ほど回るんでさあ」

何とか先に進みだした。すると、土手の上から竹屋のおじさん、

「おーい、徳さーーん、ひとりで大丈夫かーい」
「おい、今何か嫌なことを聞いたな」
「この前、この辺りで女の人を落っことしちゃったんで、おじさん心配してるんですよ」
「冗談じゃないよ、勘弁してくれよ」

蔵前橋

蔵前橋にある力士のレリーフ。1954年から1984年までの国技館は蔵前にあった

左の白壁は浅草御蔵、右には本所の武家屋敷。すると徳兵衛の舟が、御蔵の石垣に寄っていきぴったりと張り付いてしまって動けない。

「お客さん、その持っているコウモリ傘でちょっと石垣を押しちゃくれませんか」
「しょうがねえな、いよーっと……、やあ出たうまくいった。って、おい! 押して舟が出たのは良いが、あたしの傘が石垣に刺さったまんまだよ!」
「へえ、もう元には戻れませんで、諦めてください」

厩橋

御厩河岸の渡しが見えてきた。ここは対岸の本所へ行くための渡し場だ。今はなくなったが、厩橋にその名を残す。本所側は平戸新田藩松浦家の上屋敷。見事な椎の銘木があり本所七不思議にも数えられた。七不思議といったって、大きな椎の木があるのに落ち葉がひとつも落ちていないのが不思議だなあという話。他愛のなさが可笑しい。

歌川広重・名所江戸百景「御厩河岸」対岸が本所の平戸新田藩松浦家の上屋敷

御厩河岸の渡しは流れがきついことでも有名で、転覆する舟も多いらしい。口が悪い江戸っ子は「三途の渡し」なんて呼んでいた。

「随分揺れる舟だなあ」
「っていうか、流されてやしないかい!? あぶねえ! ぶつかるよ!」
「へえ、他の舟が向かってきたら避けてください」

どうにかこうにか大桟橋の近くまでやってきたが、徳兵衛もお客も真っ青。徳兵衛は疲労困憊で舟を着けることができないものだから、お客はもうひとりをおぶって、川をざぶりざぶりと歩いて岸にたどりついた。

「おい、若いの大丈夫かい? 柳橋に戻れるかい?」
「お客さん、お上がりになりましたら、船頭を一人雇って下さい」

さて、この徳兵衛がいっぱしの船頭になってからの続きは、一転オツなお話しとなってまいります。次回、「お初徳兵衛」までのお楽しみ。

文:櫻庭 由紀子(落語ライター・江戸時代考証)
写真:伊勢 新九朗